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掲載日:2023年10月25日
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皆さんは、「カイコ(蚕)」がどんな虫かご存知でしょうか。
蚕は桑の葉を食べる昆虫です。卵・幼虫・蛹(さなぎ)及び成虫の4つの変態の過程を経て1世代を完了します。蛹(さなぎ)の時代は、外敵に対して無防備にならぬよう、繭という防衛のための巣を作ります。繭は幼虫体内にある1対の絹糸でつくられる繭糸によって構成されています。人はこれを利用して絹を作ります。
数十年前までは、日本人にとって蚕や桑畑は身近な存在でした。養蚕農家数は多い時には15497戸もありました。しかし、現在では養蚕農家数は減少し続け、蚕や桑畑はほとんど見られなくなりました。現在において蚕は、特に若い人にはなじみのない生き物かもしれません。
しかし、養蚕の歴史は古く、中国を起源とし、おおよそ4500年以上も前から行われていました。その後、世界中に養蚕が伝わり、海や砂漠を超え、危険な目に遭いながらも美しい絹織物を求めて中国までやってくる人々もいました。日本では1~2世紀から養蚕が始まりました。「魏志倭人伝」、「十七条の憲法」においても、絹や農桑の重要性について記載されていたことから、卑弥呼や聖徳太子も養蚕を重宝していたことがわかります。
本庄も養蚕が盛んだった町のひとつです。明治16年(1883年)の高崎線の開通・本庄駅の開業によって、本庄の交通網が整いました。すると、多くの物資の輸送がスムーズに行えるようになり、本庄には多くの製糸工場が進出しました。本庄は繭の一大集荷場として繁栄し、多額の資金が流通するようになりました。蚕は、本庄の繁栄に一役買ったのです。
日本において盛んだった養蚕も、時代が進むにつれて衰退していきました。1929年の世界恐慌をきっかけに、ナイロンの普及、輸入絹織物の増加、後継者不足や円高なども重なり、絹製品の需要は落ち込んでしまいました。養蚕農家は次第に姿を消し、2015年(平成27年)には368戸までに減ってしまいました。
養蚕は4500年以上もの間続いたにも拘わらず、この1世紀という短期間で劇的に衰退してしまったのです。長い歴史の中で、世界中で重要な意味を持った虫・蚕を、私たちはたった1世紀の間に忘れ去ってしまって良いものでしょうか。
そこで、管内でも養蚕農家がわずか3軒となり、蚕の記憶が薄れてしまった今だからこそ、改めて蚕についてお伝えしたいと思います。また、当事務所のホームページに連載中の「NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を今に伝える県境の魅力めぐり」にあるとおり、渋沢栄一と養蚕、絹産業とは関連が深いのです。このホームページでは、蚕の成長を追っていきます。是非皆さんも一緒に、蚕の成長を見守ってください。
養蚕を再考することで、かつて養蚕業が盛んだった本庄・児玉地区を俯瞰し、郷土を見つめなおす機会になるかもしれません。また、過去のものと思われがちな蚕から、未来につながる意義などを学べるかもしれませんよ!
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