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掲載日:2023年10月3日
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上里町立郷土資料館の林学芸員が執筆した、養蚕にまつわる「シルクエッセイ」を、「カイコってなんだろう?! ~本庄・児玉地区の養蚕について紹介しています!~」にてご紹介していきます。林さんによる専門的な視点から、本庄・児玉地域の養蚕の歴史・文化を紡いでいきます!
上里町立郷土資料館学芸員の林 道義(はやし みちよし)さん
埼玉県内、特に児玉郡市内では、いつごろから養蚕が行われ、どのように産業として発達していったのだろうか。今回は、養蚕が児玉郡市周辺の産業として成長していった過程を数回に分けて紹介してみたい。
埼玉県内ではじめて養蚕が行われたのは、一体いつのころだったのだろうか。この疑問について、資料が残されていないため、はっきりしたことは分からないというのが実情である。しかし、今から1,300年前の奈良時代には蚕の飼育が行われていたとみて間違いないだろう。平安時代の初頭、大和朝廷が編纂した『続日本紀(しょくにほんぎ)』という歴史書には、奈良時代の和銅6(西暦713)年5月11日付の記事として、武蔵国(現在の埼玉県と東京都全域及び神奈川県の一部にあたる)の人々に対し、「絁(あしぎぬ)」を税として献上することを定めたと記録されている。「絁」とは、「悪(あ)しき絹」がつまった言葉である。また織り込まれた糸が太かったことから、「ふとぎぬ」とも呼ばれていた(『箋注和名類聚抄』(せんちゅうわみょうるいじゅしょう※)割注)。唐をはじめ、大陸から輸入された高級絹織物と比較し、糸が太く品質が劣っていたため、国産の絹織物に対し、この名前が付けられたのだろう。
事実、奈良時代に武蔵国で作られた絹は、都に運ばれ、皇族や貴族をはじめとする特権階級によって盛んに消費されていた。例えば、8世紀前半から半ばにかけて在位した聖武天皇の愛用品にも武蔵国の笠原郷(現在の鴻巣市笠原周辺)で作られた「絁」が含まれている。この「絁」は、現在も彼の遺品を収めた東大寺の正倉院に保存されている。
では、そのころの児玉郡市内では、養蚕は行われていたのだろうか。やはり直接、養蚕が行われていたことを示す資料は非常に乏しい。しかし、残された事例をかき集め、当時のことに思いを巡らせてみよう。
武蔵国で「絁」が納められるようになる少し前、今から1,400年ほど前の飛鳥時代のことである。現在の児玉郡市に当たる地域は、児玉郡、賀美(かみ)郡、那賀(なか)郡の3つの郡に分かれていた。これらを現在の自治体に当てはめると、児玉郡が本庄市と神川町の一部、賀美郡が上里町と神川町の一部、那賀郡が美里町に当たる。これらの中には、さらにいくつかの里があり、地域の有力者である郡司(ぐんじ:郡の役人)や里長(りちょう:里の長(おさ))らによって支配されていた。これらの郡は、支配体制を変えながら明治時代まで1,200年以上も維持されており、その後、昭和、平成と市町村合併等を経た現在も児玉郡市として脈々と継承されている。
ところで、この「児玉」という地名の由来をご存じだろうか。一説には、蚕の神のことを意味する「蚕玉(こだま)」という古語に由来し、古くから養蚕が盛んな地域であったために名付けられた地名であるという(角川地名大辞典)。この説は、古記録による裏付けがないため、荒唐無稽な説にも思われる。しかし、遺跡からの出土品や民俗事例をみてみると、必ずしもそうとは言い切れないのかもしれない。例えば児玉郡市内の古代遺跡から、石や鉄等で作られた円盤状の物体が多く出土する(写真1)。
(写真1)遺跡から出土した紡錘車
これらは紡錘車と呼ばれる道具であり、繊維から糸を作り出すために使われた。円盤の中央の穴に棒をとおし、独楽のように回転させ、繊維をねじることで一本の糸が作られた(図1)。
(図1)紡錘車の使用法
糸を作る際の原料は、麻や楮(こうぞ)をはじめとする植物繊維のほか、絹が使用された。絹の場合、繭の繊維をほぐした真綿や繭から引き出した細く、長い繊維が使われる。このようにして作られた糸を用いて絹布が織られ、税としての献納や市場等で商品との交換に利用されたと考えられる。
このほか児玉郡市内で養蚕が行われていたことを示す事例に上里町の「長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」がある(写真2)。
(写真2)長幡部神社
長幡部神社は、上里町大字長浜に現存する町内最古の神社の一つであり、現在も地域住民の信仰を集めている。この周辺はかつて賀美郡に属し、平安時代に法律や儀式についての取り決めをまとめた文献『延喜式』にもその名が登場している。社名の「長幡」は、先述した絁の別名であり、さらに「長幡部」は大和朝廷の支配の下で「絁」の生産を行った集団を指す言葉である。そのため長幡部神社は、かつて周辺に居住していた絁の生産に携わった人々の氏神であり、彼らの居住を示す重要な名称とされている。想像の域を出ないが、彼らは本業である「絁」の生産だけでなく、蚕の飼育やクワの栽培技術を持ち、原料の生産も行っていたのではないだろうか。
【参考文献】
埼玉県蚕糸協会編『埼玉県蚕糸業史』埼玉県蚕糸協会 1960年
『新編埼玉県史』通史編1. 埼玉県1987年 p.580
小泉勝夫『新編日本蚕糸・絹業史』上巻 蚕糸業史研究調査会 2019年
伊藤智夫『絹1.』ものと人間の文化史68 法政大学出版局 1992年
京都大学文学部国語学国文学研究室編『諸本集成和名類聚抄』臨川書店 1968年
潮見浩『図解技術の考古学』有斐閣 2000年
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