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掲載日:2024年2月21日
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さらに、児玉郡周辺の蚕種業者の活躍はこれだけではない。彼らは蚕の飼育において、高い技術を持っていた。そのため彼らの中には、政府から養蚕の専門家として登用され、あるいは養蚕の技術書を執筆し、我が国の養蚕技術の向上と普及に尽力した人物も存在する。
例えば、血洗島の渋沢宗助は、安政6年に『養蚕手引抄』を著している。また島村の田島弥平と従弟の田島武平は、明治4年から宮中で行われるようになった養蚕に技術支援を行った。さらに弥平は、養蚕の方法を紹介した技術書『養蚕新論』(写真1)と続編の『続養蚕新論』を著している。このうち『養蚕新論』は、蚕室の風通しを良くし、飼育を行う「清涼育」を紹介した書物として有名であるが、一方で温度計(写真2)を利用して蚕の飼育に適した環境を管理するなど、生物学を応用した飼育方法をはじめて取り上げた書物でもある。これにより科学的知識に基づく蚕の飼育法が全国に広がっていった。『養蚕新論』の刊行によって、養蚕が「科学技術」に昇華されたといっても過言ではない。
また黛村の萩原杢衛は、明治3年から内務省に設置された養蚕試験場に登用され、同13年に現在の新宿御苑に作られた養蚕伝習所の教授となった。さらに私人としては養蚕技術書『蚕事真説』(写真3)を著し、自身の研究に基づき飼育法の普及に尽力している。
科学技術として養蚕の研究が進められるようになったことにより、養蚕が学問として教えられるようになる。児玉郡近辺では現藤岡市の高山長五郎が設立した「高山社」や現神川町の木村九蔵が設立した「競進社」等の養蚕学校が設立され、科学として養蚕の講義が行われた。2校の講義内容は、いずれも「折衷育」と呼ばれる飼育法を中心に置いたものであった。「折衷育」とは、蚕室内の温湿度を徹底的に管理し、蚕の最も効率よく成長する環境を人為的に作り出す飼育法の総称である。それまで主流となっていた清涼育と比べ、繭ができるまでの飼育期間を短くすることができた。いずれの学校の学生も各地から集まっており、彼らたちによって折衷育が全国に広められていったのである。特に「高山社」は、関東各地に分教場が設置され、民俗学者の柳田国男は、養蚕業の「一総本山」と評価した。
このように児玉郡周辺の蚕種屋を中心に養蚕の技術革新とその普及がなされていった。蚕種屋が養蚕業を普及することによって蚕種の需要を拡大させ、その売り上げにつながったことを考えれば、この時期に蚕種屋が養蚕の普及を行ったのは当然だろう。
だが、彼らは自己の利益のためだけに研究や普及を行っていたのではない。当時の我が国は、欧米と比べて国家として圧倒的に未熟であった。また、東アジアでは清国(中国)がイギリスとの戦争(アヘン戦争・アロー戦争)に敗れ、欧米の植民地と化していた。日本も欧米から侵略を受け、清国と同じ運命をたどるのではないか、という危機感が我が国にも少なからず我が国にも存在した。この時期、我が国にとって一刻も早く経済力と軍事力を付け、欧米諸国と対等な外交を進めていくことが喫緊の課題であったのである。そのためには兵器や工業機械の購入など、莫大な資金(外貨)が必要だった。明治政府は、「富国強兵」のスローガンを掲げ、養蚕業と製糸業に資金源を求めたのである。紹介した蚕種屋たちも同様の願いがあったようだ。例えば萩原杢衛の執筆した『蚕事真説』の序文には、次のような一文が記されている。「日本産生糸の名を世界にとどろかせることは、国民の誠意にかかっている。故に全国の製糸家達よ、目先の利益に迷わず、報国心(国に尽くす心)を持って我が国の名を世界に輝かせ、富国の基礎を強固なものにすることを望む。(筆者現代語訳)」とある。この一文からも分かるように蚕種屋達は、繭や生糸が国家の発展に繋がると確信し、養蚕の普及を行っていたのである。
しかし、我が国の蚕種の輸出量を増加させた微粒子病は、フランスの細菌学者ルイ・パスツールによって原因の究明と予防策が確立された。また蚕種は、取引額の高価さから粗悪品や偽物の流通が顕著となり、ついには値崩れを起こすようになる。そのため明治10年頃には、蚕種の輸出量は下落し、蚕種屋達も輸出用蚕種から国内消費用の蚕種に製造を切り替えていった。しかし、欧米における絹の需要は依然として高く、完成品である生糸そのものの輸出が顕著になっていった。蚕種屋達が飼育技術や知識を広めたことにより養蚕業が根付き、海外の需要に十分に答えるだけの繭が生産できるようになったのである。
写真1『養蚕新論』と『続養蚕新論』
写真2 養蚕新論に描かれた温度計
写真3 萩原杢衛『蚕事真説』
【参考文献】
沢辺満智子『養蚕と蚕神-近代産業に息づく民俗的想像力』慶應義塾大学出版会 p.35-86
本庄市教育委員会編『本庄市の養蚕と製糸』本庄市郷土叢書第1集 2012年
埼玉県蚕糸協会編『埼玉県蚕糸業史』埼玉県蚕糸業協会 1960年
近藤義雄ほか『群馬県の養蚕』みやま文庫 1983年
田島信孝『宮中ご養蚕の始まり』ぐんま島村蚕種の会 2022年
関口覚編『よくわかる高山社』高山社を考える会 2012年
関口覚編『農家と共に歩んだ高山社』高山社を考える会 2012年
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