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掲載日:2024年7月31日
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明治3年(1870)、製糸場の建設を決定した明治政府は早速、製糸業が盛んだったフランスから一人の技術者を雇い入れる。彼こそが世界遺産富岡製糸場の設計を行ったポール・ブリューナである。
ポール・ブリューナは1840年、フランス南部のドローム県で生まれた。彼の故郷はフランス国内でも有数の養蚕地帯にあり、幼少期の彼にとって、蚕は身近な存在にあったとされる(高橋 1943 p.112)。成人したブリューナは、絹製品の産地であったリヨンの生糸問屋に入社し、取引した日本産生糸を検査するため、横浜に滞在していた。彼は明治政府の依頼を受けると、工場用地の選定に取り掛かかる。その候補には、武蔵(現在の埼玉県周辺)、信濃(長野県周辺)、上野(群馬県周辺)等の養蚕地帯が選ばれたが、最終的に繭や燃料、水が豊富に手に入る群馬県富岡町に工場の建設が決定した。
また、明治政府側の責任者としては、現深谷市出身の尾高惇忠(おだかあつただ:地元ではじゅんちゅう とも呼ばれる)がいる。彼は、文政13年(1830)、武蔵国榛沢郡下手計村(はんざわぐんしもてばかむら:現在の深谷市下手計周辺)に生まれる。尾高家は下手計村の名主を務めた家系である。また渋沢栄一の従兄にあたり、両家は周辺一帯の特産品だった藍を集め、染料(藍玉)に加工することを家業としていた。そのため惇忠は、「藍香(らんこう)」、栄一は「青淵(せいえん)」という雅号(いずれも青色の染料である藍にちなむ)を名乗り、二人で道すがら漢詩を作りながら原料の藍葉を買い付けに行くほど仲が良かった。
すでに触れてきたが、榛沢郡(現在の深谷市のうち、およそ旧岡部町域にあたる)は、明治期になると養蚕業が盛んに営まれていた。惇忠自身も名主として地域を統率しながら、様々な形で養蚕の普及に尽力したようである。やがて持ち前のリーダーシップを買われ、明治政府に役人として出仕するようになる。製糸場の設立に関わるのは、この直後であり、製糸場の建設主任として資材の調達や工場従事者の確保に奔走した。
ところで「尾高惇忠」という人物の面白いところは、幕末から明治にかけて埼玉県北部で発生した多くの事件にたびたびその名が登場する点である。例えば青年期には、当時、流行した尊王攘夷思想に触発され、倒幕運動や外国商館の焼き討ちを計画、渋沢栄一をはじめ近隣の若者達の指導者となっている。やがて幕府が弱体化して幕府軍と明治政府軍が衝突する戊辰戦争がはじまると、一転して幕府軍に参加し、飯能周辺で明治政府軍と激しい戦闘を繰り広げた。さらに壮年期には、地域の代表として様々な訴訟やトラブルの解決に奔走するようになる。そのため惇忠が明治政府に仕官するようになるのも、この時、政府役人と交渉したことがきっかけになったとも言われる。
かくして明治5年(1872)、群馬県富岡町に官営富岡製糸場が開業した。当時の欧米にもこれほどの規模の製糸場は作られておらず(大野2023)、世界的に類を見ないほどの大規模工場であった。工場の構造は、木材を骨組みにしてレンガで壁等を作る「木骨レンガ造り」が採用された。しかし当時、国内でレンガの製造は行われていない。そのため惇忠は、故郷深谷から瓦職人を呼び出し、またレンガの接着に使うセメントは漆喰を代替するなど、試行錯誤を繰り返しながら建物を完成させている。また繭から糸を作るための繰糸器は、操作する日本人の体格や日本の気候にあったものに改良が加えられた。
また富岡製糸場では、生糸の原料となる大量の繭は、本庄宿において買い付けが行われた。製糸場の完成直後の明治7年、尾高惇忠は本庄町(現本庄市)に出張しており、同地の豪商であった諸井泉右衛門らに原料となる繭の買い付けを依頼している。この依頼を受け諸井たちは早速、本庄町の開善寺(現本庄市中央2丁目8-26)に取引所を開設した(『埼玉県蚕糸業史』p.229)。江戸時代より中山道の宿場として発達した本庄宿は、人と物資の集積地となっており、また周辺の児玉・深谷・大里地域は養蚕地帯であった。周辺でこれほど上質な繭を大量に手に入れることのできる場所は他にないだろう。これにより本庄市街地は、周辺各地から繭が集められる「繭市」として賑わうようになる。近代において、児玉郡市周辺は富岡製糸場の経営も支えていたともいえよう。
いずれにせよポール・ブリューナと尾高惇忠、フランスと日本の絹のスペシャリストが出会ったことによって富岡製糸場の建設が成し遂げられたのである。これにより、我が国における器械製糸の時代の幕が開かれたのであった。この変革が後に児玉郡市周辺にも大きな影響を与える。
写真1 富岡製糸場内部を描いた浮世絵
(一曜斎国輝『上州富岡製糸場之図』,大黒屋平吉.国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1305876 (参照 2024年7月16日)
壁にレンガが使われていることがわかる
写真2尾高惇忠の生家
屋根には養蚕をするための「総櫓(気抜け)」が付けられており、かつて養蚕が行われていたことを示す
写真3尾高惇忠 生家の蔵
蔵はレンガ造りだった。お洒落。
写真4藍の葉
尾高家や渋沢家が稼業とした藍の原料となった
【参考文献】
埼玉県蚕糸業協会編『埼玉県蚕糸業史』埼玉県蚕糸業協会 1960年
荻野勝正『尾高惇忠 もっと知りたい埼玉のひと』さきたま出版会 2015年
高橋和年『近世日本興業偉人伝13 製糸業の先駆者 尾高惇忠』日本出版社 1943年
富岡製糸場世界遺産伝道師会編『富岡製糸場事典』シルクカントリー双書 上毛新聞社 2011年
大野彰『生糸と織物のグローバルヒストリー 幕末から昭和初期までの製糸業の発展と流通』ミネルヴァ書房 2023年
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