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掲載日:2023年7月11日
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上里町立郷土資料館の林学芸員が執筆した、養蚕にまつわる「シルクエッセイ」を、「カイコってなんだろう?! ~本庄・児玉地区の養蚕について紹介しています!~」にてご紹介していきます。林さんによる専門的な視点から、本庄・児玉地域の養蚕の歴史・文化を紡いでいきます!
上里町立郷土資料館学芸員の林 道義(はやし みちよし)さん
「絹」という言葉を聞いて、我々は何を想像するだろうか。第一にドレスやネクタイ、振袖といった豪華な衣装を思い出すのではないか。また女性の髪の毛のように繊細で美しいものの例えとして、「絹」という言葉が使われることがある。さらに卑近なものでは、なめらかで舌触りよく作られた豆腐を「きぬごし」と呼び、慣れ親しんでいる。このように絹という言葉は、現在の我々にとって、およそポジティブな意味で使われており、非常に身近な存在になっている。
そもそも「絹」とは何だろうか。絹とは本来、カイコが作る繭から製造される繊維のことである。カイコは、幼虫から成虫(蛾)になる過程でサナギになる。この時、カイコの幼虫は周囲に一本の白く細い糸を吐き、丸い繭を作りだす。この繭を再びほどいて得られる繊維が絹であり、これらを加工して絹糸や真綿、絹布等が作られる。そのため、原料を得るためにカイコを育てることを「養蚕(ようさん)」といった。
繭から得られた絹は、特有の艶としなやかさを持っている。これは絹の繊維が光沢を持つタンパク質でできており、さらにその長さがほかの天然繊維よりもケタ違いに長い(※)ためである。美しく肌触りのよい絹は、古今東西にわたって高級品として富の象徴とされてきた。中でも中国は、約5000年前に養蚕が発祥した地域であり、歴史をとおし上質な絹の産地でもあった。中国で作られた絹は「白糸」と呼ばれ、古代ではローマやペルシャ、エジプト、日本等、ユーラシア大陸全体に輸出されていた。これらを運んだ交易路が一般に「シルクロード」と呼ばれている。
一方、わが国に養蚕が伝わったのは、今から2500年ほど前の弥生時代からであり、約400年前の江戸時代には、各地で養蚕が行われるようになっていた。さらに150年前の幕末・明治時代には、戦乱や蚕病(カイコの病気)の流行によって中国をはじめ各国の生糸生産量が著しく低迷したことにより、我が国の生糸が輸出品として躍進する。明治42(1909)年には、我が国の生糸生産量は世界第1位になっており、中でも長野県や群馬県、福島県と並んで一大養蚕地域になったのが埼玉県であった。特に現在の児玉郡市周辺は大規模な養蚕農家が多く、明治から昭和期にかけて農家一軒当たりの繭の生産量が県内で首位を誇るほど(グラフ1、『新編埼玉県史』別編5 統計掲載の春蚕収穫量より筆者算出)になっていた。これらの繭のほとんどは、近隣で加工され、横浜から欧米に向け輸出されていた。その利益は国家の発展に大きく寄与し、あるいは文化や風習、人々の価値観にまで影響を与えた。カイコのことを、「御蚕(おかいこ)」、「御蚕様(おこさま/おかいこさま)」と丁寧語で呼ぶのもそのためである。
このシリーズでは、埼玉県と児玉郡市内を中心とした養蚕の歴史や文化を興味のままに紹介するものである。かつて、養蚕が盛んであったころの郡市内の記憶を少しでも紡ぐことができたら幸いと考えている。不躾ではあるが、しばしお付き合い願おう。
【参考文献】
吉武成美ほか編『シルクロードのルーツ』日中出版 1982年
川口浩『絹の知識百科』染織と生活社 1991年
農業・食品産業技術研究機構企画戦略本部編『カイコってすごい虫!』2019年
※絹の繊維の長さは一本につき1,200mほど。木綿等の植物から得られる繊維は通常、数cmである。通常、幼虫が一つの繭を作る際にこの量の糸を一度に吐き出す。
グラフ1:一軒当たりの生産量の単位は貫(=3.75kg)
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