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掲載日:2023年10月3日

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児玉郡市ではなぜ、養蚕が発達したのか【その2】 -林さんのシルクエッセイ-

県内・郡市内における中世の養蚕 -シルクのベールに包まれた謎-

 児玉郡市における古代の養蚕について、資料が少ないながらも最低限の説明はできたのではないだろうか。この後、平安時代末から鎌倉、さらに室町、戦国時代にあたる中世といわれる時代になると、県内の養蚕に関連した資料はさらに少なくなる。これは統治者であるはずの朝廷や貴族、郡司等の有力者たちが弱体化し、彼らによる税の徴収やその記録が行われなくなったためと考えられる。また、この頃は戦乱や震災、さらに気候変動による天候不順等による飢饉が頻発した時代である。したがって養蚕や生糸の生産、あるいはその加工に十分な労力を割くことができなかったことも記録が少ない一つの要因と言えよう。たとえば埼玉県の話ではないが、今から800年ほど前の平安時代末に編まれた説話集『今昔物語(こんじゃくものがたり)』には、「小野宮(おののみや)の大饗(おおあえ:大臣主催で行われた正月の宴会のこと)に九条の大臣、打衣(うちぎぬ)を得たること」という話が収録されている。「九条大臣」と呼ばれる貴族、藤原師輔が宴会の引き出物の打衣を手に入れる話である。「打衣」とは、絹布に糊を張り、専用の道具で光沢がでるように加工したものである。作中で師輔は、庭園を流れる小川に誤って打衣を落としてしまうのだが、拾い上げてみると水につかった部分は水をはじき、ほかの部分と全くそん色がなかったという。藤原師輔(909~960年)は『今昔物語』が編纂される100年ほど前、10世紀前半ごろの人物であり、そのころの話と想像される。説話はラストで、「(このような打衣は)今の世では極めて得難いものである」と結んでいる。このことは、今昔物語が編纂された当時、すでに絹織物の生産力が低下していたことを物語っているように思われる。また、室町から戦国時代になると、幕府や細川氏等の戦国大名たちが中国と貿易を開始する。これにより「白糸」と呼ばれる中国産の高級生糸が大量に我が国に流入し、西陣織等、それらを原料に織られた織物が大名をはじめとする富裕層からもてはやされるようになる。これにより、国産の生糸や織物はさらに圧迫されていった。

 しかし、埼玉県内の養蚕が中世になって全く廃れてしまったわけではない。たとえば、貞治2(1363)年に室町幕府第2代将軍の足利義詮が武蔵国高麗郡(現在の日高市周辺)の武士、高麗彦四郎に年貢の督促を行っているが、この時、年貢を絹布で納入する督促状が遺されている。この記述は現在、埼玉県における養蚕に関連する中世史料として唯一のものとされている。中世の埼玉県では、停滞しながらも着実に古代以来の養蚕が続けられていたのである。やがてくる江戸時代の「養蚕大爆発」を待つように.....。


【参考文献】

埼玉県蚕糸協会編『埼玉県蚕糸業史』埼玉県蚕糸協会 1960年

伊藤智夫『絹Ⅰ』ものと人間の文化史68 法政大学出版局 1992年

山田孝雄ほか校注『今昔物語集(三)』日本古典文学大系 岩波書店 1975年

その3へ続く(クリックすると続きを読むことができます。)


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