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掲載日:2024年2月21日

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児玉郡市ではなぜ、養蚕が発達したのか【その4】 -林さんのシルクエッセイ-

黒船の衝撃

 少し時間が空いてしまったが前回、筆者は江戸時代を我が国の養蚕業における「ルネッサンス」と表現した。その後、明治維新となり養蚕業はさらなる画期を迎える。

 「明治維新」とは、幕末から明治時代初頭にかけておこった一連の政治的変革を指す。この時期、日本を支配してきた江戸幕府の解体とそれに代わる中央集権国家の整備が急速に行われた。これらの出来事は、養蚕業にとってどのような影響を与えたのだろう。今回はその過程に迫りたい。

 さて幕末は、アメリカ海軍の司令官だったペリー率いる黒船の来航によってにわかに幕を開けた。今からおよそ170年前の嘉永6年(1853年)のことである。その目的は、海外との交流を200年以上も閉ざしてきた日本に開国を迫るためであった。彼らは、日本を船舶に食料や燃料を提供する補給港とする思惑を持っており、欧米諸国が東アジアでの活動を広げるためには日本は重要な位置にあった。

 アメリカの圧倒的な軍事力に危機感を覚えた江戸幕府は、それまで続けてきた鎖国体制を諦め、アメリカやイギリスをはじめとする欧米諸国との外交を模索していった。また危機感を覚えたのは、幕府の上層部だけではなかった。水戸藩(現在の茨城県水戸市周辺)や長州藩(現在の山口県周辺)等の武士達の間には、欧米との交流を否定し、欧米人を打ち払う「攘夷思想」が広まり、やがて倒幕運動等の過激思想と結びついていった。

横浜開港と養蚕

 黒船来航の5年後の安政5年(1858年)、幕府は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとそれぞれ修好通商条約を締結させる。後に「安政五か国条約」と呼ばれる条約である。この条約は朝廷に無断で締結したものであり、幕府内外から批判が続出した。これに対し、幕府トップである大老の井伊直弼は、反対派を処刑や処罰することで条約の締結を強行した。この出来事は後に「安政の大獄」と呼ばれることになる。しかし、直後に井伊も江戸城桜田門で水戸藩を中心とした攘夷派の浪士によって惨殺された(「桜田門外の変」)。一連の出来事は幕府の弱体化を招き、幕府の崩壊へとつながっていった。また、これら条約の内容も輸入品に対し関税自主権が認められていない等、我が国にとって非常に不利な内容であった。この内容を撤廃し、諸外国と対等な立場で外交を行うことが、明治期の外交におけるスローガンとなっていく。

 このように「安政五か国条約」は、我が国の歴史上、悪名高い出来事として語られてきた。少なくともポジティブな出来事として紹介されることは皆無である。しかし、我が国の養蚕業に対しても大きな影響を与えていたことは、あまり知られていないのではないだろうか。これら条約の締結により、鎖国体制は完全に崩壊し、我が国の商人達は欧米と自由に貿易ができるようになったのである。

 丁度この頃、ヨーロッパでは蚕の病気である「微粒子病」が蔓延していた。また古代から絹の一大産地であった中国も2度のイギリスとの戦争や内乱によって大きな打撃を受けていた。当時、これらの出来事がダブルパンチとなり、世界の絹の流通量を大きく下落させていたのである。生糸商人達は、欧米での絹の需要を満たすため、新たな生糸の輸入先を模索していた。そんな中、日本が貿易を開始したのである。先の条約によって東は横浜、西は神戸が貿易港として開かれた。とくに、横浜の北には我らが埼玉や群馬、あるいは長野、福島等の繭の産地が位置していた。絹の輸出港としては十分すぎる立地である。かくして、横浜港は絹の一大取引地となり、平成に至るまで絹の輸出拠点として機能し続けたのである。

開港時の横浜港の様子

開港時の横浜港の様子 明治時代に印刷された絵図。会場には外国旗を付けた船が停泊しているのがわかる(国会図書館蔵『御開港横浜正風景』 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2542405 より)


【参考文献】

近藤義雄ほか『群馬県の養蚕』みやま文庫 1983年

沢辺満智子『養蚕と蚕神-近代産業に息づく民俗的想像力』慶應義塾大学出版会 p.35-86

 

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