トップページ > 県政情報・統計 > 県概要 > 組織案内 > 企画財政部 > 企画財政部の地域機関 > 北部地域振興センター本庄事務所 > 地域の見どころ・情報 > 中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 vol.2
ページ番号:79670
掲載日:2023年11月1日
ここから本文です。
※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)
旗本丸毛氏、奥津氏、横田氏、水野氏、山本氏、西宮氏の知行所。文政年間(1818年~1830年)の家数は130軒。
当村にはさしたる名物はなかったが、街道沿いの家数は50軒ほど、また、街道沿いには商売を営む家が14軒ほどあったらしい。
このうち、茶屋を営む店が5軒、小間物・荒物の店が3軒、うち1軒は酒屋と質屋を兼ねている。ほかに、刻みたばこ屋4軒、湯屋渡世と髪結が1軒である。
本庄宿の定助郷村である牧西村は、助郷の「用元」を勤め、助郷運営にはかなり大きな力を持っていたらしい。
寛政6年には、火災により村方のほとんどを焼失したとの記録が残っている。
牧西村には立場があった。立場とは、次の宿場までが遠い場合に、その途中に休憩施設として設けられたものである。
十返舎一九の「諸国道中金の草鞋」には「ほんぜうを打すぎて、もくさいといふたてば、きれいなるちゃやあり、したくするによし」とこの立場をほめている。
宝珠寺から少し進むと、藤田郵便局の向かいに立派な長屋門がある。小川家の長屋門だ。
資料には「小川家助郷用長屋門」と記されている。白壁が大分剥がれかかっているが、立派な長屋門である。
小川家は旗本山本氏の名主を勤め、同家は本庄宿助郷村の「用元」も世襲していた。
助郷とは、参勤交代などの時に、宿場の近くの諸村から馬と人足を出させる制度である。
街道を進むと田畑が広がる風景となる。
すると右側(北側)に石仏らしきものが。
近づいてみると、賽神、子育て地蔵、庚申塔が畑の前の道路に並んでいる。
しばらく行くと右側に長屋門が見えてきた。比較的新しい門だ。門の西隣には「内野歯科医院」の看板がある。これが内野家の長屋門だ。
次回は、傍示堂から大正院までを辿ります。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください