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掲載日:2023年11月1日
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※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)
「神保原1丁目」交差点を右折して130メートルほど行くと国道17号の「神保原(北)」交差点に差しかかる。
ここを渡って750メートルほど西に進むと右側にあるのが金窪神社だ。
戦国時代の金窪城主斎藤氏が鎌倉八幡宮を城内に勧請したのがはじまり。
神流川合戦で斎藤氏が滅んだ後は、村人が村の鎮守として祭るようになった。
石柱には八幡神社とある。
毎年10月には雨乞い獅子と呼ばれる獅子舞の奉納がある。
金窪神社は、拝殿の天井絵と本殿の彫刻が素晴らしいことで知られている。
拝殿の格天井には67枚の絵があり、中央にある雲竜図は祥雲斎俊信によるものだ。
また、本殿の東・北・西の3面に彫刻がある。
ところで、この彫刻にはこんなエピソードがある。
金窪神社を出て350メートルほど進むと民家の角に消火栓ボックスと並んで「三国道入口」の石柱が建っている。
ここは、中山道から分かれ、烏川を渡って角渕(群馬県玉村町)へ向かう三国街道の分岐点。
新町宿が成立するまでは、ここを右折する道が上州、越後に向かう主要道路であった。
この石柱のすぐ先の左側が陽雲寺の入口だ。
元久2年(1205年)の創建と伝えられる曹洞宗の寺。はじめ満願寺と称した。
徳川家康が関東に入府した際、武田信玄の甥である川窪信俊がこの地に配置され、信玄夫人(陽雲院)を境内に住まわせたとされており、没後その菩提を弔うため陽雲寺と改称した。
武田信玄夫妻のものと伝えられる画像など武田家関連の資料が残されている。
信玄夫人は京都の三条家の出身であることから、明治時代には、武田家末裔の宮司武田正樹と政府の要人三条実美とのやりとりの記録も残されている。
また、新田義貞の家臣で金窪城主であった畑時能(畑和元埼玉県知事の先祖に当たるらしい)の墓もある。
陽雲寺の石の大門を出て西に向かう。
60メートルほど進むと畑時能の首塚と伝えられる愛宕塚がある。
この先の道を右折し、少し中山道から離れるが、金久保村の名主を代々勤めた須賀家に立ち寄ってみる。
中山道から700メートルほど入った西金公会堂の先、立派な長屋門のある家が須賀家だ。
須賀家は18世紀中頃から金久保村の名主を代々勤めた家で、地主でもあった。
嘉永2年(1849年)には小作人が21人いたという記録が残っている。
また、烏川の藤ノ木河岸を通して、藍玉、大豆、蚕種などを取引し、質屋金融も行っていた。
江戸の物価情報を絶えず入手しており、江戸の商人から送られてきた「米、麦、大豆などの品目と値段が刷られている書状」や「大豆の値段が急騰したのでたくさん送ってほしい旨の書状」が残されている。
この辺りには昔ながらの立派な家や蔵が今でも残っている。
中山道に戻って旅を続ける。
西に向かって650メートルほど進むと、国道17号と合流するちょっと手前の右側に高窓のある家が目に入る。なかなか歴史がありそうな家である。
中山道から一歩入ると高窓のある家は見ることができるが、中山道沿いでは唯一ではないか。
この家の東側には二十二夜様1基と庚申塔3基が並んでいる。
庚申塔群の前の坂は「庚申坂」と呼ばれているらしい。
高窓の家のすぐ西側に一里塚跡がある。
江戸時代、各街道に一里塚が整備された。
これは旅人の目印にしたもので、一里ごとに5間4方の塚を置き、頂上には榎が植えられた。
この塚は日本橋から23番目の一里塚だった。
その跡地には「天王社」が祭られている。
一里塚跡から進むとすぐに国道17号と合流する。「勅使河原(北)」交差点だ。
さらに150メートルほど進むと「神流川橋(南)」交差点に差しかかる。
「大光寺」という案内板に沿ってこの交差点を左折し、250メートルほど行くと大光寺に到着する。
臨済宗円覚寺派の寺で、健保3年(1215年)に武蔵七党の勅使河原権三郎有直が創建。
勧請開山は、日本へ初めて禅宗を伝えた栄西禅師である。
天正10年(1582年)の神流川合戦により総門のみを残し焼失。
また、寛永8年(1631年)には神流川の大洪水で境内が水中に沈んだ。
さらに、明治42年(1909年)には高崎線の列車の煙火により引火して、総門、土蔵を残し全焼したため、本堂等を再建し現在に至っている。
神流川渡し場のたもと(本庄宿側)に建立された常夜灯(見透燈籠)が保存されている。
大光寺を出て中山道に向かう。
北に向かって進んでいると右側に小山が見え、そこに多くの庚申塔らしきものが建っている。
細い道を右折して進むとそこにあるのが勝場百庚申塚だ。
西暦では60の倍数が庚申の年であり、この塚は庚申の年である万延元年(1860年)に地元の人によって造られた。
その後、大正9年(1920年)にも庚申塔が造られ、合わせて祭られている。
130余基あり、上里町内最大の庚申塚である。
中山道に戻る。
「神流川橋(南)」交差点を左折して西に進むとすぐに神流川橋だ。
神流川の渡しは中山道本庄宿と新町宿の間の渡し場である。
渓斎英泉の浮世絵「本庄宿 神流川渡場」にその様子を見ることができる。
宝永以前は勅使河原村が川越人足を出し賃銭を取って渡していたが、安永3年(1774年)になり新町宿が幕府に冥加金を納めることを条件に土橋を架けて賃銭を取ることを願い出たことから、翌年には勅使河原村も同様の願いを出し、長い争議となった。
安永6年(1777年)に戸谷半兵衛が仲介に入る。半兵衛は100両を上納して以後の土橋修繕費に充てることで無賃渡しとする願いを道中奉行に出し、許されて天明元年(1781年)に自費で長さ30間、幅2間の土橋を架け、渡船1艘による無賃渡しが始まった。
天正10年(1582年)の6月18日から19日にかけて、織田信長の家臣として上州と信州の一部を治めていた滝川一益と、相模国を中心に関東南部を所領としていた北條氏が神流川で戦った。
当初は滝川勢が攻勢だったが、翌日には北條氏に押し切られ大敗した。
この合戦は、戦死者が両軍合わせて4千余人を数え、戦国時代関東における最大の激戦と言われている。
また、この時の兵火で、上里町にあった寺院の多くが焼失し、大光寺の山門のみが残ったと伝えられている。
上里町側の堤防上に説明板があり、橋を渡った新町側に神流川古戦場の碑がある。
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