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掲載日:2023年11月1日

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中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 vol.6

中央3丁目交差点~若泉公園~安養院~旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

江戸時代はこんな感じ

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拡大図(JPG:1,120KB)

 

これが現在

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拡大図(JPG:2,339KB)


※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)

中央3丁目交差点から中山道を外れて北に向かってみる。この道は本庄市と群馬県伊勢崎市を結ぶ伊勢崎新道だ。
330メートルほど進むと小さいながらもモダンな橋がある。これが賀美橋だ。

賀美橋

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伊勢崎新道の開削に伴って大正15年(1926年)に建設された鉄筋コンクリートの桁橋で橋長6.3メートル、幅員は9メートル。国登録有形文化財である。
親柱の上部に家型の装飾が施されており、当初はその上にガラス製の柱灯と受台があったらしい。
親柱の各面には三角ペディメントがついており、また、橋の下部にある7つの連続アーチには縁に白いタイルが張り付けられている。凝った造りである。

賀美橋の西側には若泉公園が広がっている。

 

若泉公園

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公園の急崖は烏川の浸食によって形成されたもので、以前は崖際から豊富な湧水があった。
安養院の山号「若泉山」もこれに由来している。
公園内を流れる元小山川の旧川は、崖下より湧く清冽な清水を水源としており、公園より上流一帯は清水河原とも呼ばれた。
しかし、近年は湧水も止まり、現在はポンプで汲み上げた水を流して水源としている。
桜の名所として知られ、春にはソメイヨシノを中心に約160本の桜がきれいな花を咲かせる。
例年、4月初旬の日曜日に若泉公園桜まつりが行われる。

若泉公園から中山道方面に向かって進む。若泉公園のすぐ南側にあるのが阿夫利天神社だ。

 

阿夫利天神社

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石尊様とも呼ばれている。
山と雨乞いの神様を祭る阿夫利神社と火雷天神の神様を祭る天神社が大正2年(1913年)に合社し、阿夫利天神社となったものである。
社伝によると阿夫利神社は、寿永年間(1182年~1184年)に源頼朝によって領地を受けた児玉党の本庄庄太郎家長が、かねてより信仰していた相州大山石尊大権現を領地内の当所に勧請したのが始まりである。
その隣接地に安養院が開基されると、明治初年の信教分離まで同寺が別当職を務めた。
一方、天神社は、天正2年(1574年)、本庄城主本庄宮内少輔実忠の命により城の鎮守として奉斎されたことに始まる。
慶長17年(1612年)に本庄城が廃城になると、天神社は村人の手によって守られた。
寛文7年(1667年)に慈恩寺境内に移され、その後、阿夫利神社に合祀された。平成12年に放火により社殿が焼失したが、御神体が残り、平成14年に再建された。


阿夫利天神社の南側には普寛霊場がある。

普寛霊場

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密教御嶽教の開祖である普寛上人の墓があるのが普寛霊場である。
普寛上人は、享保16年(1731年)、現在の秩父市大滝に生まれ、本名を浅見好八といった。
青年時代は秩父直神陰流の達人として剣術に優れていたという。
34歳の時、人心救済を決して修験者となり、名を本明院普寛と改めた。その後、厳しい修行を経て神仏両道の奥義を究めた。
木曽御嶽山、上州沼田の武尊山、越後の八海山などの登山道を開いたことでも有名である。
享和元年(1801年)に特に縁を求めて本庄宿にとどまったが、同年9月に病没し、安養院に葬られた。
現在の霊場は、大正11年(1922年)に安養院境内より移されたものである。
なお、上人をしのんで、毎年4月10日、10月10日に全国から信者が集まり、大祭が行われている。
春の祭りでは、お祓いパレードや稚児行列のほか、境内で各種秘法・秘術、火渡り・刃渡りなどの荒行が行われる。

普寛霊場から伊勢崎新道に出て150メートルほど南に進み、細い道を右折して少し行くと安養院の門前に至る。

安養院

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曹洞宗の寺で、山号を若泉山、寺号を無量寺という。文明7年(1475年)創建。
本尊は無量寿如来で、ほかに脇立として観音と勢至の2つの菩薩がある。
もともとは、武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟の藤太郎雪茂が仏門に帰依して当時の富田村(現在の本庄市東富田)に安入庵を営んだが、その土地が水不足だったため、水源が豊かだった現在地に移設し、安養院を開基したと伝えられている。
以後、付近は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになったという。
当時は、現在の若泉公園も安養院の境内であり、相当広かったようだ。
本庄城落城後衰退したが、その後再興され、慶安2年(1649年)に徳川幕府から25石の朱印地を受けている。
戸谷半兵衛家や森田助左衛門家といった本庄宿の豪商たちの墓所でもある。


安養院から伊勢崎新道に戻り南に進むと、中央3丁目交差点の手前にちょっと目立つ蔵がある。

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看板を見ると「蔵髪」(くらっぱ)となっている。蔵を美容室として使っているようだ。この蔵は、江戸時代には文具店丸十商店が倉庫として使っていたものらしい。
本庄市の中山道沿いには多くの蔵が残っているが、実際に店舗などに使われているものはそれほど多くない。

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ちょっと一息

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中央3丁目交差点から中山道を西に向かって歩く。
すると左側に煉瓦色の建物が目に入る。これが旧本庄商業銀行煉瓦倉庫だ。

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

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明治29年(1896年)に、銀行が融資の担保として預かった大量の繭を保管するために建築したもの。
昭和51年からはローヤル洋菓子店として使われていたが、平成23年から本庄市の所有となっている。
煉瓦造2階建て寄棟造りで、深谷市にあった日本煉瓦製造の煉瓦が使われている。
桁行約36.4メートル、梁間約9.1メートルで、煉瓦はイギリス積みとなっている。
全国有数の繭の集散地として栄えた本庄市と繭の生産拠点であった周辺地域の歴史を伝える上で非常に重要な建築物である。
本庄市で改修工事を実施しており、平成29年4月から交流・展示スペース、多目的ホールを備えた地域の交流拠点として生まれ変わる。

本庄市の繭市場(明治45年)
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資料提供:本庄市教育委員会事務局文化財保護課

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫前から西方向を望む

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次回は泉町界隈を辿ります。

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