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掲載日:2023年11月1日
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※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)
旧本庄商業銀行煉瓦倉庫の相向かいに歴史を感じさせる店を発見。金物、日用雑貨を商う(株)金正だ。江戸時代は「油屋藤吉」という店名だった。主の中村さんに話を聞くことができた。
「創業して300年になる。もともとは油屋である。現在は刃物、金物を扱っている。この建物は慶応時代のものである」とのこと。慶応と言えば江戸時代最後の元号である。
「商家高名録」(文政8年〔1825年〕)にも豪商中屋(戸谷)半兵衛とともに載っている。
敷地内を見せていただいた。店舗の裏に蔵が残っている。安養院までが(株)金正の敷地だ。かなり広い。安養院の門の斜め前に立派な蔵がある。聞いたところ「あれもうちの蔵。店のすぐ裏にあったものだが、壁の剥がれがひどかったため、今の位置まで曳家した」とのことだった。
面白い話も聞かせてくれた。「うちの本家は近江で、江戸時代は油を近江から水運(帆かけ船)で運んでいた。当時、馬を飼っており、利根川の船着き場まで馬で油を引き取りに行っていた」という。
ところで、曳家されたという蔵の横に見事な金木犀がある。これだけ立派な金木犀は見たことがない。
株式会社金正を出て西に向かって歩くとすぐに「中央3丁目」交差点に差しかかる。あれっ?
手前の交差点も「中央3丁目」だったはず。
地図で調べてみると中山道と伊勢崎新道が交差するところも確かに「中央3丁目」。同じ名前の交差点があるんですね。
インターネットで検索したところ、青森市、弘前市には同じ名前の交差点が複数あるらしい。
それはさておき、さらに西に向かって歩みを進める。
注意をして歩くと、この辺りは、中山道から少し奥に入ったところに蔵がたくさん見られる。
ちょっと行くと右側に風情のある洋館風の建物がある。看板は、右から左に「中澤医院」となっている。
この建物は、大正15年(1926年)に建てられたものらしい。
新しい医院が別の場所に新築され、この建物は現在医院としては使われていない。
映画等のロケ現場としてよく使われているということだ。
旧中澤医院から歩を進めると、今度は左側に歴史のありそうな建物が2軒並んでいる。
東側の家が「ふくしま製菓舗」、隣が「野口製麺工場」だ。
蔵を利用した和菓子屋さんのようだ。店の福島直子さんに話を聞いてみる。
「うちは昭和の初めから菓子屋をやっている。40年前に建て替えた時に蔵風の建物にした」
こんな話も聞かせてくれた。「ここからちょっと西に行ったところに金鑽神社がある。そこでは、出雲大社に行っていた神様が帰ってくる11月1日(旧暦)の午前零時に神様をお迎えする『神迎祭(お神迎え)』という祭事が行なわれる。参拝の帰りには『福を買う』ということで、お菓子屋さんで豆大福を買って帰る」のだそうだ。
ただ、「昔はたくさん店が出て賑わっていたが、今ではお菓子屋で店を開けているのは、うちと岡崎屋製菓舗さんの2軒だけになってしまった」と語ってくれた。
ちなみに、このふくしま製菓舗さんの一押し商品は「宿場娘」。渋皮付きの栗を白あんで包み、ホワイトチョコレートをコーティングしたもので、上品な味わいが特徴だ。
こちらの店の生和菓子は、地域の多くの茶道の先生から御贔屓いただいているらしい。
宿場娘
ふくしま製菓舗の隣にあるのが野口製麺工場。麺類各種を製造・販売している。
かなり歴史を感じさせる建物だ。店の次女の内海由美子さんに話を聞いてみる。
「ここに住んで今が6代目で店は江戸時代からやっている。この店舗は大正5年(1916年)に建てたもの」とのこと。100年以上経っている。
ここからすぐ西側に、江戸時代の豪商戸谷半兵衛家があるが、「うちの初代は戸谷半兵衛の店の番頭で、のれん分けをしてもらった。戸谷半兵衛の店が『中屋』で、うちが野口だからそれを合わせて店の名前は『中野屋』になった。今は『野口製麺工場』という名称だが、店の入口のガラスには、昔書いてもらった『中野屋製麺工場』という文字がそのまま残っている」と話してくれた。
この建物に惹かれるのか、「中山道歩きをしている人がよく立ち寄ってくれる」らしい。
レトロ感たっぷりの店内
ここから西に50メートルほど行くと左側に「本庄市立図書館」という看板があり、その少し奥まったところに戸谷半兵衛家がある。
戸谷半兵衛家は享保18年(1733年)に初代戸谷光盛が「中屋」を創業してから、中屋半兵衛の名で太物、小間物、荒物を商い、「関八州田舎分限角力番付」(豪商番付)では西方筆頭の大関として位置付けられていた。
安永2年(1773年)には本庄宿のほか、江戸に5店舗、さらに京都六角通りにも店を構えており、本庄店の使用人だけでも39人いたという。3代目半兵衛光寿のころには江戸で両替商を開業し、越中前田家、立花家、鍋島家など大名への融資も行っていた。この3家だけでも15万両を超える貸付けがあったという。
初代から慈善活動に熱心で、先に紹介した馬喰橋や相生橋を私費で石橋に架け替えたほか、神流川の渡し場に土橋をかけ、無賃渡しも自らの拠出した資金で実施した。
この渡し場に常夜灯を建立したのは3代目で、これらの功績により幕府から名字、帯刀を許されていたという。しかし、4代目のときに大名への融資金の回収ができなくなり、貸金の中に代官所からの御用金も含まれていたことから名字帯刀を取り上げられ、家財闕所の処分を受けた。
中山道に戻る。
中山道分間延絵図によると、江戸時代にはこの市立図書館入口辺りに市神(西の市神)があったらしい。
市神は、市の取引の無事や幸福を与えると信じられている市の守護神。
神体は円形の自然石が多く、神社の境内や市の開かれる場所の路傍に祭られていた(中山道分間延絵図でも道の真ん中に描かれている)。
本庄宿には、本町の市神(東の市神)と新田町の市神(西の市神)があり、これらは、定期市が開かれた寛文3年(1663年)に建てられたものである。
本庄宿には定期市がなかったが、近傍の榛沢村(現在の深谷市)に交渉して定期市開催の権利を譲り受けた。市神はその時に榛沢村から移転したもので、毎年1月7日の初市には榛沢新田の武井浅右衛門が神官を同道し、市神に神幣を供していたらしい。
定期市は、本町・中町・上町で、毎月2、7の日計6回開かれていた。
ちなみに、西の市神は金鑽神社に合祀されている。
道の真ん中に神が祭られているなどということは今では考えられない。
ところで、中山道の道の真ん中と言えば、江戸時代末期に本庄宿でとんでもないことをした人物がいる。芹沢鴨だ。
次回は二の蔵、金讃神社などを辿ります。
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