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掲載日:2023年11月1日
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※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)
本庄市立図書館入口から西へ80mほど進むと右手に大きな蔵が3棟見えてくる。
中山道から奥に向かい、板張りの蔵、白壁の蔵、赤煉瓦の蔵と3つの蔵が並んでいる。
道端の看板には「本庄宮本 蔵の街」とある。
これらの蔵は明治43年から平成21年まで酒問屋小森商店の本庄支店の蔵として使われていた。
小森商店は本店は騎西にあり、現在は株式会社釜屋として埼玉の地酒で有名な「力士」を販売している。
一の蔵(板張り、元は黒漆喰)は明治12年築造の書類などを保管する店蔵。二の蔵(白壁)は明治22年築造の味噌、醤油の蔵。三の蔵(赤煉瓦)は大正10年築造の完成した商品を保管する酒蔵。
築造された時代によって外装が違うのが面白い。
小森商店開業前の江戸時代、ここには「穀屋」という店があった。主は真塩治右衛門で穀物、醤油などを扱っていた。文化年間には旅籠屋も経営していたそうだ。
一の蔵、二の蔵は穀屋時代に、三の蔵は小森商店時代に築造されたものだ。
小森商店が閉店した後、市民グループ「本庄まちNET」の保存運動により、平成22年、敷地全体が「本庄宮本・蔵の街」として生まれ変わった。
cafe NINOKURA
「本庄宮本・蔵の街」の3つの蔵のうち、白壁の二の蔵には、ほっこりと居心地の良いカフェが入っている。その名も「cafe NINOKURA」。
店の中に入ると包み込まれるような安心感。テーブルやイスなどは再利用したもので、不揃いだがどこか懐かしいものばかり。不思議と落ち着く空間である。
1階はカフェ、2階は板張りで20帖あり、幅3mのスクリーンを備えたフリースペースとして貸し出している。蔵主の飯塚さんは「これはいいと思った地元のもの、そして旬の食材を活かして丁寧に作った料理と飲み物を出すようにしている」とのこと。
「今日のごはんプレート」「つみっこ膳」ともに優しい味付けでからだが喜ぶランチだ。飲み物に付くちょこっとデザートもうれしい。メニューには蔵主さんこだわりの食材の仕入先が表示されていて安心できる。
本庄のご当地グルメ「つみっこ膳」(右上がつみっこ)
中山道に戻り、さらに西に進んでみる。250メートルほど行くと右側にあるのが金鑽神社だ。
社伝によると、創立は欽明天皇の2年(541年)となっている。武蔵七党のひとつである児玉党の氏神であったが、本庄城主歴代の崇信も厚かった。
境内は欅や銀杏などの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだいわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。
本殿は享保9年(1724年)、拝殿は安永7年(1778年)、幣殿は嘉永3年(1850年)の再建で、本殿は、日光東照宮の改修や妻沼聖天宮の造営もしている上州「花輪の甚八」こと石原吟八郎の作である。それぞれ、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には本庄宿の武正南慮や小倉紅於らが描いた花鳥画がある。
御神木となっている楠木の巨木は県指定の天然記念物で、幹回り5.1メートル、高さは約20メートル。本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられている。
11月2~3日に行われる本庄まつり(金鑽神社秋季大祭)は本庄の鎮守様のお祭りとして親しまれており、絢爛豪華な山車が晩秋の中山道を優雅に巡行する。
金鑽神社のすぐ北側にあるのが佛母寺だ。
佛母寺は、もとは山号を金鑽山威徳院白蓮寺といい、高野山聖僧威徳房玄正が天授元年(1375年)に開創したと言われている。
金鑽神社の別当寺で、明治期に神仏分離令により廃寺となった。
明治17年(1884年)に壇信徒の発起により再興を出願。翌年、埼玉県知事により許可になり佛母寺として再興された。
鐘楼の「妙音殿」額は元総理大臣吉田茂の揮毫による。
金鑽山威徳院白蓮寺の建物としては、文化11年(1814年)に建立されたと伝えられる大門が金鑽神社に残っている。
中山道に戻り旅を続ける。金鑽神社を少し西に進むと「千代田3丁目」交差点に差しかかる。ここを右折した道(国道462号)が中山道だ。
国道462号を北に向かって歩くと、ん?
歩道に中山道各宿場の名前を記した絵タイルが貼られている。(埼玉県内の宿は絵タイル。それ以外は宿場名のみ)。千代田3丁目交差点から高尾歩道橋手前までで長さは100メートル余りだ。
板橋宿から数えてみると草津宿まで68ある。あれっ、中山道の宿場って69じゃなかった?
そうだ、最後の大津宿がない。よく見ると、1か所タイルが剥がれたような跡が・・・。
この高尾歩道橋のところを左折して西方向に進む。350メートルほど進むと左から来る道と合流。合流した地点から250メートルほど行くと差しかかるのが「小島4丁目」交差点。ここを右折してちょっと行った右側にあるのが長松寺だ。
唐鈴山薬師院と称する弘法大師空海を宗祖とする真言宗の寺である。
開山は祐海法印で、創建年代は江戸時代初期と思われる。
本堂の西側及び北側の山林の中に土塁、空堀が残っている。これは、館址の遺構で、武蔵武士のひとつ丹党の一族小島氏の居館址と伝えられている。
この周辺にあった百余基の古墳は旭・小島古墳群と命名され、県選定の重要遺跡となっている。
本庄市のマスコットキャラクター「はにぽん」のモデルとなった盾持人物埴輪は、この古墳群の中の「前の山古墳」から出土している。
長松寺の入口のところから道路に沿って220メートルほど見事な銀杏並木の参道が続き、その奥に唐鈴神社の本殿がある。
社伝によると、遣唐使として唐に渡った大伴宿根古麿が天平勝宝年間(749年~757年)に帰国の折、唐の玄宗皇帝より渡海安全のための金鈴を授けられた。その子古佐美の子である良麿が五穀豊穣を願い、社を創立した。
その後、帰京を任ぜられた良麿は、神宝の盗難を恐れ、それらを石函に入れ社の下に埋めた。
幾歳月が過ぎ、戦乱の世に社も破壊されたが、これを嘆いた近在の人々が再興のため社跡を掘ると石函が出土し、中に5つの金鈴があったという。これが唐鈴神社の由来である。
ところで、この神社にまつわる魔物伝説がある。
次回はいよいよ上里町に入ります。
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