大宮公園 > 大宮公園の歴史
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掲載日:2024年7月17日
大宮公園は、氷川神社の境内地の一部を官営化して明治18年に開設された、県内初の県営公園です。開園以来、時代の要請に応えて拡張や整備が続けられ、現在に至るまで桜の名所やスポーツの拠点としての役割を果たしてきました。
ここでは、130年を超える大宮公園の歴史の一端を紹介します。
大宮公園の歴史年表
年号 |
主なできごと |
明治6年 | 太政官布告第16号(各府県に対し公園候補地を選定するよう命令) |
明治18年 | 日本鉄道大宮駅開業 |
明治18年 | 休憩所「含翠楼」建設 |
明治18年 | 氷川公園開園式挙行 |
大正10年 | 本多静六、田村剛による氷川公園改良計画の作成 |
昭和8年 | 児童遊園地開園 |
昭和9年 | 野球場完成 |
昭和9年 | 日米親善野球を開催(ベーブ・ルースのホームラン) |
昭和9年 | 舟遊池(ボート池)の完成 |
昭和14年 | 双輪場完成 |
昭和15年 | 陸上競技場完成 |
昭和23年 | 氷川公園から大宮公園に改称 |
昭和24年 | 第1回大宮競輪開催(東日本初) |
昭和25年 | スポーツランド完成、飛行塔の設置 |
昭和27年 | 県営プール完成、体育館完成 |
昭和28年 | 小動物園開園 |
昭和30年 | 弓道場完成 |
昭和35年 | 県営サッカー場完成(日本初のサッカー専用球技場) |
昭和39年 | 県営サッカー場で東京オリンピックのサッカー競技を開催 |
昭和42年 | 第22回埼玉国体開催(野球、サッカー、バレーボール、自転車競技を開催) |
昭和46年 | 埼玉百年の森の整備 |
昭和46年 | 県立博物館開館 |
昭和47年 | 新体育館完成 |
昭和55年 | 大宮第二公園の供用開始 |
平成元年 | 日本の都市公園100選に選定 |
平成2年 | さくら名所100選に認定 |
平成4年 | 硬式野球場完成 |
平成5年 | 日本庭園開設 |
平成12年 | 舟遊池の貸しボート終了 |
平成13年 | 大宮第三公園供用開始 |
平成16年 | 第59回埼玉国体開催(野球、自転車競技、テニス(第二公園)を開催) |
平成19年 | NAC5スタジアム大宮完成(さいたま市管理) |
平成23年 | 舟遊池のかいぼりを実施(1月~9月) |
平成31年 | 大宮公園グランドデザイン策定 |
令和4年 | 大宮スーパー・ボールパーク構想策定 |
令和4年 | 舟遊池のかいぼりを実施(10月~令和5年4月) |
令和6年 | 舟遊池の貸しボート復活 |
大宮公園のはじまりは、地元の要望により明治18年9月22日に誕生した氷川公園です。
開園に向けて県庁に29名からなる世話掛が設置され、土地の実測や規則の制定等の作業が進められました。
構想作成の過程では、専門家として招いた東京の庭師・佐々木可村の白鳥池周辺の松林を伐採する案に再考を促す一幕もあったそうです。休憩施設の「含(がん)翠楼(すいろう)」を建設したほか、四阿、ベンチ、遊歩道等が整備されました。
当初、管理には県勧業課があたり管理費を捻出するため、二万尾の鯉の養殖(水質が合わず失敗に終わりました)や料亭への借地、伐採木の払い下げなどが行われまた。
その後、明治24年9月から一時、管理は大宮町に移りましたが、財政的な配慮により明治31年4月から再び県営公園となっています。
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開園期の公園はマツや雑木林に覆われて武蔵野の面影が色濃く、熱海と並ぶ東京の奥座敷として、ホタル狩りや秋の虫聴き、ハギの花やススキ鑑賞等の風流が人気を呼び、多くの文人墨客が訪れています。
現小動物園から児童遊園地にかけての一帯は、高級料亭「万松樓(ばんしょうろう)」のあった場所です。俳人・正岡子規の随筆『墨汁一滴』の中に、明治24年の9月、当時東京帝国大学の学生であった子規が試験勉強のため、この料亭を訪れ、この地を大変気に入り、友人の夏目漱石を呼び寄せたとのくだりが書かれています。
また、『創作断片』の中で大宮公園への関心の高さを書き記した樋口一葉は、明治25年に公園を訪れています。その他、永井荷風、国木田独歩、森鴎外、正宗白鳥、与謝野鉄幹等が作品の舞台としています。永井荷風の『野心』は、大宮公園が舞台となっています。
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日本の公園の父と称される本多静六博士(埼玉県久喜市生まれ)は、明治34年の日比谷公園の設計を最初に、全国各地の公園設計・改造に携わっています。
大宮公園も本多博士が手がけた公園の一つで、埼玉県の依頼に基づき大正10年5月に同僚の田村剛博士と「氷川公園改良計画案」を作成しています。
その内容は現在の公園の骨格を決めるもので、既存公園の割烹旅館の移転や桜の植栽を始め、向山(現百年の森付近)地区を拡張し、舟遊釣魚の池(現ボート池)や大運動場(現双輪場等)を整備する計画が提案されています。
昭和期になって本格的な公園整備が進められ、現在は双輪場、野球場、サッカー場等が建設され、本多博士が構想したスポーツの殿堂とアカマツとサクラの公園として、広く県民に親しまれています。
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本多静六博士等による氷川公園改良計画に基づき、昭和5年5月29日に拡張区域の湿地等埋立工事の鍬入れ式が行われ、本格的な公園整備が始まりました。
高鼻台地の間に入り込む見沼の低湿地を埋め立てる工事は、当時は難工事で、湿地の泥土を排除し、水はけのよい用土と暗渠の水抜きをすることが必要でした。設計で大幅に不足する盛土については、国鉄大宮工場から、排水にも有利な石炭殻を無償で大量に提供され、工事が進められました。
当時の工事起工調書によると、昭和5年9月から昭和7年6月の間に2,727人を動員して10,458立方メートルの埋立をおこなったとあります。
埋立後、旧野球場(昭和9年10月しゅん工)や双輪場(昭和14年9月しゅん工)陸上競技場(昭和15年6月しゅん工)等が建設されています。舟遊池(ボート池)も昭和9年10月に整備が完了しています。
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児童遊園は、料亭「万松樓(ばんしょうろう)」が立ち退いた跡地に整備され、昭和8年2月15日に開園しました。当時は、本多静六博士等による「氷川公園改良計画案」に基づく、児童の運動遊技のための小運動場としての位置づけでしたが、昭和25年4月1日にはスポーツランドが開設されました。
現在ある飛行塔(平成17年3月改修)は、スポーツランド開設時、埼玉県体育協会により設置されました。当時、県体育課長の中村由蔵氏が、各地の博覧会で好評を博していた飛行塔の設置を計画し、製造業者と交渉して当時の額にして約二百万円で購入したものです。
この頃はまだ、飛行塔はめずらしく、遠足等で学校の校外教育にも活用するよう広報されています。
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現在の児童遊園地
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現在の野球場は、平成4年に国際規格の球場に建替が行われ、高校野球等の競技に使用されています。旧大宮公園野球場は、当時の明治大学野球部岡田源三郎監督の意見を聞き設計され昭和7年1月に起工式が行われ、昭和9年10月に仮しゅん工しています。
しゅん工記念試合となったのは、完成なった11月29日に行われた日米親善野球の第十七戦です。この試合米軍チームはベーブ・ルースやルー・ゲーリック等が十本の本塁打を放ち、23対5で全日本チームに圧勝しましたが、全日本は8回裏の守備で、スタルヒン投手が登板して0封しています。
また、昭和28年8月1に行われた第三五回全国高校野球選手権南関東大会の熊谷高対佐倉一高の試合では、6回表、佐倉一高の長嶋茂雄選手(元巨人軍)がバックスクリーンに特大の本塁打を放ち話題になりました。
こうした歴史から、大宮公園球場は令和4年7月に日本野球機構の野球の聖地・名所150選のひとつに認定されました。
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日米野球の記事 昭和9年11月30日 読売新聞 |
動物園建設のきっかけは、昭和24年頃、当時の大澤雄一埼玉県知事が北海道へ出張した時のことです。埼玉県の開拓団の村「秩父峡」で見た子熊が、帰郷後、北海道より鰊とともに知事公館に送られてきました。この子熊を公園で引き取ることになり、小さな檻を作ったのが動物園の始まりです。
動物園の開園式は、昭和28年4月5日に桜まつりと同時に行われ、動物カーニバル等、多彩な催物が行われました。開園式当日は天気も良く満開の桜の元、人出は約20万人に達したそうです。
開園時は、獣舎六棟に猿、鶴、ペリカン、小鴨、オーム等が展示されていました。現在では、フライングバードケージが設置されるなど施設も充実し、約60種、300点の動物が展示されています。
小動物や鳥類が主体の動物園ですが、猛獣のクマが展示されているのはこのような経緯があるからです。
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