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掲載日:2022年1月5日
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六堰頭首工はどうしてできたのか、苦難の歴史をご紹介します。
大里用水の歴史は古く、徳川家康の江戸周辺穀倉開発によって、西暦1602年(慶長7年)に現在の熊谷市と旧川本町(現深谷市)の境界付近の荒川に「奈良堰」を作ったのが、始まりと言われています。
その後、十数年で約5kmの間に「奈良堰」から荒川の左岸下流に向かって「玉井堰」、「大麻生堰」、「成田堰」、右岸に「御正堰」、「吉見堰」(万吉堰とも呼ばれています。)の六つの堰が作られました。
これら六つの堰から取水する用水は総称して「大里用水」と呼ばれています。
荒川は、日照りが続いて雨が降らないと、極端に水が少なくなります。上流にある堰で水を取ってしまうと下流の堰では水が取れなくなってしまうため、六つの堰を利用する農民達の間では、田植えのための水争いが絶えませんでした。
また、逆に大雨が降ると、荒川はたちまち洪水となりました。簡素だった当時の堰は洪水の度に流されて、作り直さなければなりませんでした。
水争いや洪水に度々悩まされていた農民達は、これらの問題を解消させるため、大正末期に「大里用水路関係六箇水利組合連合」を結成しました。
大正15年6月に既存の六つの堰を統合する改良事業の施行を県に申請し、昭和4年度(1929年)から「県営用排水路幹線改良事業大里地区」として県が施行することになりました。
そして、昭和14年(1939年)に旧花園町と旧川本町の境界近くに六つの堰を統合した「六堰頭首工」が造られました。
時は流れてそれから約60年が経った頃、「六堰頭首工」と「江南サイフォン(荒川の左岸から右岸に用水を送る幹線)」は、荒川の川底が低くなったり、コンクリートが古くなってきたりしたため、洪水で流される危険性がありました。
そこで、国と埼玉県と地元市町村が話し合い、「新しい六堰頭首工を造りましょう。」ということになり、農林水産省が「国営大里総合農地防災事業」で改修工事を進めることになりました。
しかし、その新しい六堰頭首工を建設している途中の平成11年8月14日、大雨の影響で荒川の水量が急激に増え、その水の力に耐えきれなかった旧六堰の固定堰の一部が壊れ、流されてしまったのです。
いろいろな苦難を乗り越え新しい「六堰頭首工」は、平成10年度から平成14年度までの5年間をかけ、農林水産省関東農政局大里農地防災事業所により整備され、ついに完成しました。
そして、平成15年4月1日から、埼玉県がこの施設を管理することになりました。
また、六堰頭首工から取水した水を水田や畑に流す用水路も、老朽化が進み水漏れが多くなったり、付近に住宅が増えて台所やお風呂の水などの家庭雑排水が流れ込んで水が汚れたりするなどの様々な問題が起きました。そのため、六堰頭首工の改修工事と併せて水路の改修工事も実施し、平成27年3月に完成しました。
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