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掲載日:2023年12月1日
Q 齊藤正明議員(自民)
1702年(元禄15年)、本日12月14日、赤穂浪士47士が吉良邸に討入りをいたしました。前年の3月、藩主浅野内匠頭は切腹、領地没収という厳しい処置が下り、この日、雪の降りしきる中での2時間の戦いの末、主君のあだを討つことができました。あだ討ちという行為の是非はともかくとして、今の太平の世の日本、冷ややかでさっぱりとした現代社会では考えられないほど主従の強い絆が感じられる出来事だと思っております。併せて、人間関係の恨みつらみはいつの時代であっても消えないものだとも思います。
それでは、質問に入ります。
論語に孔子の弟子子貢が「先生のような君子でも人を憎むことがありますか」と尋ねた。すると孔子は、「人の悪口を言い立てる人を憎む。自分が劣っていることを棚に上げて、優れた人をそしる君を憎む。蛮勇を振るって礼儀をわきまえない者を憎む」と答えた。つまり人の悪を言うことも、他人をおとしめることによって、自分は正しい、自分のほうが優れていると誇っていることであり、自己中心的な考えであり、行為である。人の教えや言動に異を唱えるときには、相手の過ちの中にも正しい部分があり、自分の考えの中にも正しくない部分があるに違いないとよくよく省みることが大切である。人は耳に痛い忠告や指摘を嫌いがちである。孔子は自分の失言を指摘されたとき、「私は幸せだ、誰かがきっと気付いてくれる」と喜んだそうであります。
さて、去る8月30日の新聞紙上には「上田知事5選不出馬の意向 でも分からない」との記事が強く躍っておりました。7選を目指した橋本茨城県知事選挙の翌々日の定例記者会見での発言のことでありますが、知事任期半ばでの発言としては政治家らしくない、つまり重い重い心の決断、本音であると私なりに受け止めさせていただきました。
ところで、私は平成4年、43歳のとき地元市長選に挑戦し、81票差で惜敗いたしました。当時5期目に向け出馬宣言をしていた現役市長に対し、長期政権はマンネリ化する、庁内に派閥や偏った流れができてしまう、ごますりやイエスマンが多くなり組織が活性化しない、業者と癒着し不満が渦巻いている等々、長期政権の弊害を訴えました。危機感を抱いた現職市長は立候補を取りやめ助役を後継者に。そして、公示日を迎えました。すると何と私を含め3人の「さいとう」の名字を持つ者が立候補。後継者指名と合わせて4人の選挙戦へと突入いたしました。あれから25年、その後も全国各地で続いている生々しい選挙戦の1こまに過ぎません。
こうした中、たまたま同学年である上田知事と私が、人生の目標としていた政治の道を現在ともに歩んでいます。国会から知事へと転身した上田知事は、幾多の経験や体験をする中で、そして時代が変化し、政治状況が変わる中で、政治家としての信念や思いや目標が変わるのも時にはやむを得ないことだろうかとも思います。しかしながら、絶対に変わってはならないものがあるはずであります。それは、当初の信念であり、生き方だと思います。
そこで、当初知事が考えて首長の任期を3期までとし、条例制定までした当初の信念、思いは何であったのでしょうか、知事にお伺いをいたします。
A 上田清司 知事
まず、「知事の政治家としての姿勢」のお尋ねについてでございます。
条例についてですが、振り返ってみれば、若気の至りというか、あるいは思い上がりがあったのかもしれません。
一つは、親族がらみの問題で現職知事が辞任されるという中で、権力に対して時間的にも抑制しなければならないという考えがありました。
もう一つは、中途半端に大学院などで政治学を学び、理念が先に立ち過ぎていたのかなと、そういう思いもあります。
また、衆議院時代に知事と政令指定都市の首長の4選禁止法案を超党派で議論してきた末席にもおりましたこともあり、3期12年をもって終わるという多選自粛条例を考えました。
今思えばそれも一つの気負いであったというふうに思いますし、あるいはまた思い上がりであったのかもしれません。
首長の在任期間については、有権者が判断するものだと思います。
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