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掲載日:2024年7月8日
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2021年7月に掲載した記事です。
西﨑キク(旧姓松本キク)は、大正元年上里町に生まれた日本女性水上飛行操縦士第1号であり、日本で初めて海外へ飛んだ女性飛行士です。今回はキクの特別展示のある上里町男女共同参画推進センターで上里町郷土資料館の丸山主査に説明をしていただきました。
お話をしていただいた上里町郷土資料館の丸山主査
昭和9年春 亜細亜飛行学校で練習中のキク
埼玉県女子師範学校を卒業後、昭和4年4月に神保原尋常小学校の教員となったある日、キクは群馬県の尾島飛行場で初めて飛行機を見ます。自分も飛行機に乗りたい!と強く思ったキクは、その場でパイロットに声を掛け知り合いになります。これが縁でキクは東京深川の第一飛行学校を経て、愛知県新舞子の安藤飛行機研究所の練習生となり、昭和8年8月ついに日本女性初の水上飛行操縦士となります。
同年10月には郷土へ訪問飛行。その時の写真を見ると利根川の両岸にまさに黒山の人だかりで、児玉郡内や本庄町(現本庄市)、群馬県玉村・伊勢崎から数万の群衆が集まったそうです。郷土訪問飛行の宣伝ポスター(上の写真)やキクの教え子が書いた飛行の様子の絵を館内で見ることができます。歓迎式の写真を見るとキクの背後の人の多さに圧倒され熱狂的な歓迎ぶりが伝わります。
故郷への訪問飛行の翌年の昭和9年、満州(現在の中国東北部)に向けて日本女性初の海外飛行というキクの挑戦がはじまります。
昭和9年10月22日羽田飛行場から「白菊号」に乗り出発したキクですが、10月27日強い向い風により飛行時間が大幅に遅れたため、燃料が底をつき失速目前になってしまいました。暗闇の中、覚悟をきめて不時着したところ、奇跡的に怪我もなく機体は土手の上に。翌朝見てみると、数メートル先は川の中というまさに危機一髪の状態だったそうです。付近の住民などの協力により機体を一旦分解し、京城(現在の韓国ソウル)飛行場まで運び、組み立て・点検をうけ、4日後の31日飛行場を出発。 11月4日に無事新京(現在の中国長春)に到着し前人未到の快挙を成し遂げました。(右の写真:満州の新京飛行場での歓迎の様子)
この日本女性飛行士の海外飛行第1号が評価され、翌年昭和10年国際航空連盟より名誉ある「ハーモン・トロフィー賞」が贈られます。実は同じ日本女性の馬淵テフ子さんが1日遅れで新京に到着し、満州訪問飛行を成功させていました。もしあと1,2日到着が遅かったらキクは第1号の栄誉を手にできなかったかもしれません。その後キクは亜細亜航空学校の操縦助教官として女子部の教育を担当。講演会や映画会の開催にも力を注ぎます。
昭和12年には樺太豊原(現在のロシア ユジノサハリンスク)市制祝賀記念飛行のため羽田を出発しますが、津軽海峡でエンジン不良のため墜落。たまたま付近にいた貨物船に救助され九死に一生を得ました。
二度の不時着。二度とも命を落としかねない状況で助かり、キクは強運の持ち主だと上里町の丸山主査は言います。
当時キクの持つ二等飛行操縦士免許では乗客や貨物を載せることができませんでした。このためキクは昭和12年、戦地の戦傷病兵を空輸する輸送機の操縦士となるため陸軍省に従軍志願書を提出し、一等飛行操縦士への道を開こうとしますが、この願いは却下されてしまいます。女性だから従軍できず、一等飛行操縦士になれない。このことはキクに大きな衝撃を与えたそうです。
飛行機を降りたキクは再び新たな挑戦をはじめます。昭和13年結婚し北満開拓地へ入植します。匪賊の来襲、零下まで下がる厳しい気候など多くの困難が待ち受けていましたが、キクは持ち前の行動力で苦難に立ち向かいました。陸稲と麦とさつまいもを栽培し、様々な野菜や果物を作ったようです。また飛行機が扱えるキクは農機具の修理などができ重宝がられていたとのこと。
夫の病死、再婚、そして迎えた敗戦。昭和20年日本への引揚げの途中でキクは長男を亡くします。開拓村を出発した492人の団員が埼玉県庁にたどり着いた時は僅か133人。帰国の道のりが苦難に満ちたものだったことがうかがえます。
帰国したキクは故郷の上里町で中学校教師として勤めるかたわら七本木開拓団へ入植し、再び開墾に邁進します。昭和48年には上里町の社会教育指導員として婦人教育を担当し、「婦人だより」の刊行、婦人学校の開催など地域の女性の生活・文化向上に尽力します。 一方日本婦人航空協会理事としても活躍。昭和51年には東京から仙台間を飛行しています。昭和51年NHK朝の連続ドラマ「雲のじゅうたん」 のモデルの一人として再び注目を集める中、66歳で波乱に富んだ生涯をとじました。
キクから婦人教育の教えを受けた方が現在も上里町の女性団体で活動されており、キク亡き後もその志が受け継がれています。また「かみさと郷土かるた」の「く」は「雲のジュータン 初の水上飛行 西﨑キク」だそうです。このかるたにより地元の子供たちにもキクの功績は受け継がれているそうです。キクは自伝や随筆、小説や農業に関する論文なども書き、多方面に才能を発揮しています。その一方、満州での夫の病死、愛息の死など辛い出来事については多くを語らなかったようです。
求められた色紙にキクは「只一度の人生だから自分の可能性を追い求めよう」と書き、「自分の歩んできた人生に悔いはない。もし生まれ変われるとしたら、もう一度同じ道を歩きたい」と言っていたそうです。
キクが色紙に書いた飛行機
丸山主査のお話で印象に残った言葉は「キクは人生の節目の出来事を自分自身で決めた」です。「飛行士になることも満州開拓団へ入植することも、他人に言われて決めたことはなく、すべて自分の意志で決めたこと。初めて飛行機を見た群馬県の尾島飛行場で知り合ったパイロットから飛行への実現へとつなげ、多額の資金を要する飛行士になるための人脈も自分で切り開いていった。」とのこと。
後世に生きる私たちは、類まれなる才覚を持つキクと同じように生きることは難しいかもしれません。ただ自分の人生を「自分で決めること」はできます。「女性だから」「男性だから」「周囲が望んでいるから」「他の人と同じように」。自分で決めているようでも、望んでいることを本当に自分自身で決めているでしょうか。
また、二度の不時着からの奇跡的な生還。キクは強運の持ち主のように思えますが、キク自身が運を引き寄せたように思えます。才覚に恵まれていたといえど多額の費用がかかる飛行のため、教師の義務年限2年を待ち、資金調達の人脈を作り、夢のために努力は惜しまない。まだ女性の地位が低かった時代に自分で物事を決め、その実現のために邁進するのみ。そんなキクの潔い生き方に感銘を受けました。
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