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掲載日:2026年8月13日
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見沼代用水は、江戸時代の人々の知恵と技術によって築かれた大規模な水路です。
なぜ見沼代用水が造られたのか、どのような技術によって完成したのか。その歴史と技術を紹介します。
➡「見沼代用水みどころマップ」のダウンロードはこちら(PDF:1,350KB)(別ウィンドウで開きます)
かつて、現在のさいたま市周辺には「見沼」と呼ばれる広大な沼地が広がっていました。
見沼の開発が始まったのは江戸時代に入ってからです。当時、利根川と荒川は東京湾へと流れ、大雨のたびに洪水を引き起こしていました。そこで徳川家康は、江戸を水害から守るため、利根川を太平洋側へ流す「利根川東遷」、荒川を西へ流す「荒川西遷」を実施しました。この工事は伊奈忠次をはじめとする伊奈一族により進められました。
これにより下流地域の水害リスクは低減しましたが、一方で農業用水が不足しました。そこで、伊奈忠治は、見沼の両端が最も狭くなっている場所に堤(土手)を築き、「見沼」への芝川の流入をせき止めて巨大な溜池「見沼溜井」を築きました。この堤は、8町(約870m)であったことから、「八丁堤」と呼ばれています。
「見沼溜井」は、周囲約40km、面積1200ha(東京ドーム約255個分)に及び、これを水源とした稲作が広く行われました。

江戸時代中期、第8代将軍の徳川吉宗は、幕府の財政再建を目的とした享保の改革の一環として、新田開発を推進しました。当時(1700年頃)、江戸の人口は100万人を超えたと言われており、食料や物資の安定供給が大きな課題となっていました。
吉宗は、自身の出身地の紀州において土木事業に実績のあった幕府の役人「井澤弥惣兵衛為永」に命じ、見沼溜井の干拓と水路整備を進めました。弥惣兵衛は八丁堤を切り開いて見沼溜井を干拓し、新田へと転換しました。これが現在の「見沼田んぼ」です。
そして、見沼溜井に代わって、1万ヘクタール以上の広い地域に水を供給する新たな水源を確保するため、幹線延長約80kmにも及ぶ用水路が開削されました。これが「見沼代用水(=見沼に代わる用水)」の始まりです。
ーわずか半年で見沼代用水を完成させた人物
徳川吉宗の命により見沼代用水の整備を担ったのが、井澤弥惣兵衛為永です。
利根川(行田市)を取水源とし、八丁堤(さいたま市緑区)まで続く約80kmの大水路が計画され、この大規模工事は多くの村人の協力のもと、非かんがい期(稲刈り終了~翌年の田植えまで)のわずか半年で完成しました。
➡ 見沼自然公園にある銅像(マップ番号:(5))
見沼代用水の整備にあたって、為永は紀州藩で培った「紀州流」と呼ばれる工法を取り入れました。
江戸時代初期から中期にかけては、伊奈一族による「関東流」と呼ばれる工法が広く用いられていました。関東流は、河川の蛇行や自然の地形を生かしながら治水を行うことを特徴とし、中規模の洪水に対応できる高さの堤防を築き、それ以上は堤防を越えて氾濫させ、堤防で囲われた一帯に遊水地として水を留めていました。
一方、江戸時代中期に導入された「紀州流」は、蛇行する河川の流れを直線化して固定し、高い連続堤防によって洪水を防ぎ、自然を積極的に制御する工法です。農業用水としては、用水と排水を分ける用排分離方式であり、これにより溜井を干拓し新田開発が進められました。
水盛器は、高さや傾斜を測るために用いられた、竹と木で出来た測量器具です。為永はこの水盛器を使って水路の勾配を測量し、夜間には花火や提灯の明かりを利用して工事を行ったと伝えられています。
また、水盛器の精度は極めて高く、約80kmに及ぶ測量においても誤差はわずか6センチ程度だったと言われています。
元圦とは、利根川から見沼代用水へ水を取り入れるために設けられた取水施設です。見沼代用水は、この元圦を起点として水を取り込み、約80kmにわたって流下する大規模な水路として整備されました。
現在では、取水機能は利根大堰に引き継がれており、水量の調整を行いながら安定した用水供給が維持されています。
(用途:水道用水、工業用水、農業用水、浄化用水)

堰とは、水の流れをせき止めて、水路へ取水したり水の量を調整したりするための施設です。見沼代用水は、利根川(利根大堰)から3km下ったところで1級河川である星川に合流したあと、さらに16km下った久喜市菖蒲町で、再び星川と見沼代用水に分かれます。川を水路の一部として利用することで、工事を早く進めることができたのです。
この星川と見沼代用水に分岐するポイントで、見沼代用水側には八間堰、星川側には十六間堰が設けられ、堰の開閉によって見沼代用水の用水量を調整しています。





「伏越」とは、河川や水路が立体交差する場所で、 河川の下を水路がくぐる構造です。
利根川から見沼たんぼまでの間、伏越は53基ありますが、中でも白岡市柴山にある「柴山伏越」は重要構造物として知られています。川幅120mもある1級河川の元荒川を横断するために、元荒川の下に水路を造り立体交差で元荒川を越えています。
(提供:さいたま市)
掛樋井とは、水路を橋のように掛けて他の川の上を通す構造です。上尾市と蓮田市の境界付近で、見沼代用水が綾瀬川の上を越えるために設けられました。
作られた当初は木製でしたが、漏水や腐食が激しく幾度となく改修、明治時代には鉄製へと改造され、橋脚には旧日本煉瓦製造深谷工場製(*)のレンガが用いられました。その後、1961年の水路改変により掛渡井は撤去され、伏越に変更されました。
また、見沼代用水は、この上尾市瓦葺で綾瀬川を越えた後、台地の縁に沿って西縁と東縁に分かれます。これは、見沼田んぼに水が行き渡りやすくするため、用水を東側と西側の二つに分けて、台地の縁に沿って流すようにした工夫です。
(*)旧日本煉瓦製造深谷工場とは、明治時代に実業家・渋沢栄一が設立に関わった日本を代表するレンガ工場であり、ここで作られたレンガは東京駅などの建築にも使用されています。
(提供:さいたま市)
国指定史跡「見沼通船堀」は、享保16年(1731年)に見沼代用水東縁及び西縁とその間を流れる「芝川」を結ぶ舟運(しゅううん)のために造られた、総延長1,040メートルに及ぶ国内有数の古さを誇る閘門式運河(こうもんしきうんが)です。
芝川は見沼代用水から田んぼに供給された水を排水する先であり、見沼代用水より3メートルほど低い位置にあります。
この高低差により船の往来が困難であったため、 芝川と見沼代用水(東縁・西縁)をそれぞれ水路で結び、 途中に2ヶ所ずつ設けられた閘門(水門)によって水位を調整し、 船を上下させて通行できる仕組みが採用されました。この水路が「見沼通船堀」です。
見沼通船堀の開通により、見沼新田や周辺で採れた年貢米や農作物などが江戸に運ばれ、江戸からは肥料や塩、醤油、荒物(雑貨や日用品)などがもたらされ、地域の農業や暮らしの発展に大きく寄与しました。
閘門式運河はパナマ運河が広く知られていますが、見沼通船堀はそれよりも183年前に完成した、当時としては高度な土木技術を用いた施設です。現在も当時の構造をとどめ、その仕組みを現地で確認できることから、歴史的・技術的価値を今に伝える貴重な施設となっています。
(提供:さいたま市)
見沼代用水は、令和元年9月4日に「世界かんがい施設遺産」に登録されました。