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掲載日:2024年3月15日
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近代的建築による官庁街の整備を企図した明治政府の意向を受け、明治21(1888)年に操業を開始した機械式煉瓦工場です。ここで製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用されており、日本の近代化に大きく寄与しました。
会社は平成18(2006)年に約120年の歴史に幕を下ろしましたが、現在も旧事務所、ホフマン輪窯6号窯、旧変電室、備前渠鉄橋が残っており、国指定重要文化財になっています。
旧事務所は煉瓦史料館として貴重な文書や写真などを展示しています。
※ホフマン輪窯6号窯は現在保存修理工事中のため見学できません。
【栄一との関係】
明治政府からの要請を受けて、栄一が設立・運営に携わりました。
良質な粘土が取れること、舟運が見込まれることなどから栄一の実家近くの上敷免を工場設立地として推薦しました。
また、現在も深谷市内や深谷駅近くにある中山道周辺には日本煉瓦製造株式会社が製造した煉瓦を使用した建造物が点在しています。
日本煉瓦製造株式会社の専用鉄道跡を遊歩道に整備した通りです。沿線には福川鉄橋、備前渠鉄橋があるほか、煉瓦を活用した路面や植栽帯、栄一の雅号がついた「青淵歩道橋」などもあります。
【栄一との関係】
栄一が設立・運営に尽力した日本煉瓦製造株式会社の専用鉄道跡を遊歩道に整備しました。
現在の深谷駅は平成8年(1996年)に竣工されました。駅北口には「渋沢栄一からくり時計」が設置されています。
【栄一との関係】
深谷駅は、栄一が設立・運営に携わった日本煉瓦製造株式会社(深谷市)で製造された煉瓦が東京駅の丸ノ内本屋に使われていることを受け、丸ノ内本屋を模して造られました。現在、上野東京ラインで東京駅から深谷駅まで一本でつながっており、不思議な縁を感じます。
江戸時代に栄一の出身地・血洗島などを治めていた岡部藩の陣屋跡です。同地には、幕末の兵学者で近代砲術の祖・高島秋帆が一時幽閉されたことを記す石碑が残っています。
【栄一との関係】
栄一の出身地である深谷市血洗島などを治めていた岡部藩に、高島秋帆は冤罪で一時幽閉されてしまいました。高島秋帆は栄一に影響を与えた人物のひとりです。
また、栄一は板橋区にある「高島秋帆先生紀功碑」の企画に賛同し、寄付もしています。
平安末期から鎌倉初期に活躍した武蔵武士・岡部六弥太忠澄の墓。埼玉県指定史跡です。
【栄一との関係】
岡部六弥太の墓所を大正年間に修理した際、栄一は寄付をしました。石碑に名前も刻まれています。
建久五年(1194)に新田義重の三男である新田義兼に開基され、弘道上人を招いて開山しました。
【栄一との関係】
栄一お手植えの松(赤松)が植樹されましたが、残念ながら赤松は大雪のため倒壊してしまいました。現在は初代の実から育った2代目が植えられています。
また、栄一が昭和2年に揮毫(きごう)し奉納された寺号額があります。
日替わりでオーナーが変わるシェアカフェと深谷市の物産品など販売する物産館が併設する”街の駅”的なお店です。
【栄一との関係】
栄一の紹介コーナーや、栄一関連のお土産などを購入することができます。
江戸時代中期(1726年、享保11年)に建立された愛染堂には熊谷市指定有形民俗文化財「愛染明王」が安置されています。愛と藍の語呂合わせから江戸時代以降多くの染色業者や染料となる藍球の生産者の信仰を受けました。平成時代に保存修理工事を実施しました。
【栄一との関係】
愛染堂には、栄一の従兄弟で学問の師でもある尾高惇忠が揮毫(きごう)した奉納額(熊谷市指定有形民俗文化財)があり、栄一の妹婿にあたる渋沢市郎などの渋沢家や血洗島近辺の面々が寄進者に名前を連ねています。渋沢家・尾高家の家業であった藍玉の生産者や、県北地域の染色業者や木綿加工業者、絹産業文化の関係者、東京の花柳界、消防組織からの信仰を集めた形跡が多く残されています。
日本三大聖天の一つとして知られ、特に縁結びの霊験あらたかな寺院として親しまれています。安永8年(1779年)に再建されました。本殿「聖天堂」は、日光東照宮を彷彿とさせる本格的装飾建築で、その精巧さゆえに「埼玉日光」と称され、国宝に指定されています。
【栄一との関係】
栄一の伝記資料によると、明治32年3月31日、熊谷に立ち寄った際に、竹井澹如の別邸(現在の星溪園)を訪れた後、妻沼村聖天宮(妻沼聖天山)を参拝したと書かれています。
曹洞宗寺院の集福寺には江戸時代中期から地域周辺の土木事業などを進めた慈善家・吉田市右衛門(歴代)の菩提寺として知られ、当院には江戸時代から明治時代にかけて多くの著名人が訪れました。
【栄一との関係】
栄一との交流が知られる清水卯三郎や五代友厚が吉田家(現在、屋敷などは残されていません。)及び集福寺を訪れており、栄一の来訪は記録上明確ではありませんが、北武蔵地域における当時の人物交流の中で特筆すべき拠点ともいえます。
元素楼は、明治2年(1869年)に玉井村(熊谷市玉井)の養蚕家・鯨井勘衛(1831-1874)が設立した養蚕研究施設で、清涼育と呼ばれる養蚕技術の改良を行いました。現在、蚕室は解体され、跡地には、この地を明治皇后が表敬した行啓記念碑が建立されています。(熊谷市指定記念物 史跡)
【栄一との関係】
養蚕家・鯨井勘衛は栄一や、栄一の従兄弟で学問の師でもある尾高惇忠と交流があり、幕末期から明治時代初頭における養蚕技術の革新を行った人物として知られています。鯨井は、富岡製糸場における製糸に向けた原料確保の観点から伊勢崎の田島弥平らと協働し、当時の産業を下支えしました。
江戸時代、中山道から分岐し秩父方面へ向かう街道「秩父往還」の始点に建てられた石碑群で、熊谷から秩父への経路、宝登山への案内表示として知られています。(埼玉県指定記念物 旧跡)
【栄一との関係】
弘化4年(1848年)、安政5年(1858年)の石碑には栄一の伯父にあたる渋沢宗助が願主として記され、渋沢家などが建立したことが分かります。これは秩父銘仙などの織物産業に関連した寄進として考えられ、渋沢家と地域の工芸文化を結ぶ意義を含んでいます。
栄一が建設に携わった富岡製糸場の姉妹工場として操業していた片倉工業株式会社の熊谷工場の跡地を利用した絹産業の資料館です。片倉工業株式会社の最後の製糸工場の「繭倉庫」を利用し、操業当時の工場の様子や生産の過程を今に伝えています。(平成19年に近代化産業遺産認定)
【栄一との関係】
栄一は明治3年(1870年)に官営富岡製糸場設置主任となり、栄一の従兄弟で学問の師でもある尾高惇忠らとともに工場設置計画を推進しました。昭和14年(1939年)、片倉製糸紡績株式会社(現:片倉工業株式会社)に合併されることとなり、平成6年、同社の最後の製糸工場である熊谷工場が閉鎖し、長きにわたる製糸業の歴史を終えることとなりました。
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