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掲載日:2024年7月5日
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道徳と経済とは両者共に進めて行くべきもので、生産殖利の経済は仁義道徳によって発展し得られるもの。
また、仁義道徳の人道は経済によって拡大するものである。
(写真)古稀を迎えた渋沢栄一(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.113,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
生涯に約500の企業の育成と約600の社会公共事業に関わり、民間外交にも尽力したことで、「近代日本経済の父」とも呼ばれた渋沢栄一翁。
そんな彼は、現在の埼玉県に生まれました。そう、「渋沢って、埼玉」なんです。
新一万円札発行を記念して、埼玉から始まった彼の偉業・年譜そして彼が生涯貫いた哲学について、あらためて紹介します。
渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日、現在の深谷市血洗島に、父市郎右衛門、母えいの子として生まれました。
栄一の生家は、農業・養蚕のほか、藍玉(あいだま)の製造・販売も行っていました。藍玉は、「武州藍染(ぶしゅうあいぞめ)」と呼ばれる鮮やかな紺色に染め上げる染料として人気があり、深谷もその生産地でした。
小さいころから好奇心旺盛だった栄一は、親戚知己の蔵書を片っ端から借りて読むほど読書に熱心でした。また、14歳の時には、家業の藍葉の買い付けで商才を発揮していました。
母のえいは、大変優しく慈悲深い人で、近所の病弱な人の世話も率先して行っていました。栄一の福祉・慈善事業への熱心さは、そんな母親の影響を受けたものともいえるでしょう。
(写真)生地「中の家(なかんち)」(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.4,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
現在の埼玉県深谷市に誕生した渋沢翁。県内には、彼の原点となった生誕の地をはじめとする「ゆかりの地」が多く存在します。
渋沢翁の足跡をたどり、彼を育てた埼玉の魅力を味わってはいかがでしょうか?
渋沢翁を生み育んだ埼玉の農業は、今も元気!埼玉で収穫された農産物を味わいながら、農家に生まれた渋沢翁に想いを馳せてみてはいかがでしょうか?
栄一が17歳の時、富農であった渋沢家は、時の領主から、500両の御用金を差し出すよう命じられました。父親の代わりとして代官所に出頭した栄一は、身分をかさにきた役人の傲慢な態度に正論で対抗しましたが、ひどい仕打ちを受けてしまいました。
その時の栄一は、「ただ侍というだけで威張り散らすのは、結局、幕府が悪いからだ。階級制度が間違っているからだ。」との思いを強く抱きました。
こうした体制への反発心が次第に青年栄一を「世直し」の意識に駆り立てていきました。そして血洗島の片田舎ながら同志を募り、天下国家を論じていた23歳の時には、尾高惇忠(じゅんちゅう)らとともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地の焼き討ちという一大攘夷計画を企てたほどでした。もし、この計画が実行されていたら、その後の栄一の偉業はなかったでしょう。
(写真)激論が交わされたといわれる部屋(尾高惇忠(じゅんちゅう)生家2階)(渋沢栄一記念館所蔵)
元治元年(1864年)、一橋家の重臣・平岡円四郎の勧めで、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕官することになりました。栄一は、ここでも歩兵の募集、新しい事業の運営など、その才覚を生かしみるみる頭角を現しました。
その後幕臣となり、慶応3年(1867年)、将軍徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に出席する徳川昭武(14歳)に、庶務・会計係として随行しました。
ヨーロッパ滞在は約1年間でしたが、ちょんまげを切り、洋装に変え、持ち前の旺盛な好奇心を発揮し、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見て回りました。
この時、栄一は、進んだヨーロッパ文明に驚き、また、西欧社会の人間平等主義にも感銘を受けました。このヨーロッパ視察が、栄一の人生を大きく変えたのです。
(写真)洋装の栄一(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.33,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
(写真)徳川昭武パリ万博一行(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.29,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
世界を目の当たりにした渋沢翁は、その経験を糧に成長し、大実業家へと大きくはばたきました。
渋沢翁のように海外で学ぶ経験を積んで成長したいと考えている方に、埼玉県では、海外へ挑戦する若い方を対象に奨学生を募集するなど留学を支援しています。
栄一は、明治2年(1869年)、明治政府の高官大隈重信の強い説得で民部省に出仕し、その後、大蔵省租税正となり、税制、貨幣、銀行などの国家財政の確立に取り組みます。
しかし、官界の硬直した体制に限界を感じた栄一は、明治6年(1873年)に大蔵省を辞め、実業界へ転身し、ヨーロッパで学んだ知識を生かして第一国立銀行をはじめ、約500社の企業の設立・育成に関与しました。
栄一の生涯を通じての基本理念は、「論語」の精神(忠恕(ちゅうじょ)の心=真心と思いやり)にあり、単なる利益の追求だけでなく、「道徳経済合一説」、いわゆる「論語と算盤(そろばん)」による日本経済の発展でした。ここに栄一の偉大さがあるのです。
株式会社みずほフィナンシャルグループ | 東京海上日動火災保険株式会社 |
王子ホールディングス株式会社 | 東日本旅客鉄道株式会社 |
日本郵船株式会社 | 東京ガス株式会社 |
清水建設株式会社 | 株式会社日本経済新聞社 |
株式会社帝国ホテル | 川崎重工業株式会社 |
太平洋セメント株式会社 | サッポロビール株式会社 |
アサヒビール株式会社 | 東宝株式会社 |
秩父鉄道株式会社 | 株式会社埼玉りそな銀行 |
(写真)第一国立銀行(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.58,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
県では、日本経済の発展に大きく貢献した渋沢翁の理念を受け継ぎ、新産業の創出や地域経済の活性化を促進するため「渋沢栄一創業プロジェクト」と題し、起業家や起業希望者、ベンチャー企業を支援します。
我こそはと思う方は、ぜひチャレンジを!
埼玉会館は、大正15年(1926年)に当時の摂政裕仁親王(昭和天皇)の御成婚を記念した「御成婚記念埼玉會館」として誕生しました。
会館建設は大正12年(1923年)に計画されますが、同年に関東大震災が起こり、建設は延期を余儀なくされました。
しかし、1年後に建設計画が再び動き出します。それを支えたのは、渋沢栄一が中心となって呼びかけた会館建設への寄付でした。市井の人々も含め多くの寄付が寄せられ、大正14年(1925年)に着工にこぎつけます。そして、約1年の工期を経て大正15年(1926年)11月6日に会館が竣工します。
当時、このような公共集会施設は全国でも珍しく、東日本では日本青年館(1925年)に次ぎ、日比谷公会堂(1929年)よりも早い開館でした。
県民の力が結集して誕生した会館の竣工にあたっては、花自動車や山車がでるなど街中が祝賀ムードに沸き返り、開会式には栄一自身も出席し、祝辞を述べました。埼玉県における文化振興にも栄一は支援してくれていたのです。
(※現在の埼玉会館の建物は、昭和41年(1966年)に建て替えられたものです。)
(写真)埼玉会館旧館(埼玉会館所蔵)
渋沢翁が建設を支援した「埼玉会館」や、平成6年(1994年)に開設された「彩の国さいたま芸術劇場」では、舞台芸術や音楽公演などをはじめとした多彩な芸術文化イベントが開催されています。
渋沢翁の支援に想いを馳せながら、芸術文化に触れて心豊かなひと時を過ごしてはいかがでしょうか?
渋沢栄一は、故郷の血洗島で育った少年の頃、従兄の尾高惇忠(じゅんちゅう)から「論語」をはじめとした「四書五経(ししょごきょう)」を学びました。
「論語」は中国古代の思想家である孔子の言行録ですが、人としての生き方や道徳について説く内容で、江戸時代には学問の入門編として広く親しまれました。
栄一は、幼少の頃から親しんだ「論語」を終生、心の拠り所とし、実業家となっても「論語」に基づく道徳精神(忠恕(ちゅうじょ)の心=真心と思いやり)の実践を自らの行動の指針としました。
彼は、自らの利潤を追求する経済活動(算盤(そろばん))と世の中全体の利益を考える道徳・倫理観(論語)は、一見相反するようだが、両立しうること、正しい道理に基づいて公共の利益を考えながら自分の利益を上げることを考えないと豊かさは持続しえないことを訴えました。そのような彼の考えに基づく講演録が編纂され、大正5年(1916年)に刊行されたのが「論語と算盤」です。この考え方を彼は後に「道徳経済合一説(どうとくけいざいごういつせつ)」と呼び、84歳になった大正12年(1923年)にはこの説を題目として多くの人々に講演を行いました。
この考え方は、現代において、貧困や不平等、気候変動、環境劣化、繁栄、平和と公正など、私たちが直面するグローバルな諸課題の解決を目指し、持続可能な開発を目標とする「SDGs」の考え方を先取りするものであり、彼の先進的でバランス感覚に富んだ精神とその偉大さを最も象徴的に現したものと言えるのではないでしょうか。
県では、渋沢翁が肖像となった新一万円札が発行されることを記念し、渋沢翁が設立に関わった企業や、渋沢翁の理念に沿った取組を積極的に行う全国の企業等を「埼玉県渋沢栄一スピリッツ企業」として認定し、その取組や理念を紹介します。
県では、多くの企業の設立や育成に携わる一方で、福祉や教育などの社会事業にも尽力した渋沢翁の生き方や功績を顕彰するとともに、今日の企業家のあるべき姿を示すため、渋沢翁の精神を今に受け継ぐ全国の企業経営者に渋沢栄一賞をお贈りしています。
知っている企業があるか確かめてみては?
栄一は、実業界の中で社会公共事業や教育機関の支援、国際親善に最も熱心だった一人で、彼が関わった事業は600余に及びました。
中でも養育院では、子供から老人まで、貧困者の救済や療養、教育などを行う福祉施設であり、栄一は91歳の天寿を全うするまでの52年間も院長を務めました。
こうしたヒューマニズムの精神は、栄一の生涯を貫いた論語の教えのほか、母親えいの影響もあるものと思われます。NHK大河ドラマでは、栄一の母えいが、幼少の栄一に対して「あんたが嬉しいだけじゃなくて、みんなが嬉しいのが一番なんだで」と諭す場面がありましたが、こういった思いやりの心が栄一の偉大さのルーツだったのかもしれません。
栄一は、実業教育も重視し、商法講習所の経営に尽力しました。これは東京高等商業学校(後の一橋大学)に発展しました。
また、女子教育にも力を入れ、女子教育奨励会(後の東京女学館)や日本女子大学校(後の日本女子大学)の設立・運営を援助しました。
(写真)東京市養育院巣鴨分院を訪問された高松宮宣仁親王殿下とともに(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.224,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
昭和に入り、かねてから日本とアメリカの関係が悪化してきたことに心を痛めていた栄一のところに、親交のあったギューリック博士から、人形による国際交流を行い、日米友好を図りたいという提案が外務省を通じてきました。
栄一は、すぐに外務省や文部省と連携して「日本国際児童親善会」を組織し、その受入窓口を整えました。そして、アメリカ側から約12,000体の「青い目の人形」が届き、昭和2年(1927年)3月3日の節句に盛大な歓迎式典が行われました。
このアメリカ人形は全国各地の小学校等に贈られ、大歓迎を受けました。後に日本側から答礼として58体の日本人形がアメリカへ送られました。「青い目の人形」は、現在、埼玉県内に12体が保存されています。
このように、栄一は国際親善にも大きな功績を残しています。
(写真)答礼人形送別式典(『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.187,「渋沢栄一フォトグラフ」より)
渋沢翁が大切にした海外との絆。県では、海外の州省との姉妹友好提携や埼玉親善大使の委嘱、関係団体と連携したプログラム、県内の外国人支援などを通じて、国際交流・国際協力・多文化共生に取り組んでいます。
国際親善に興味のある方!あなたの力が生かせるかも!!
渋沢翁の生涯についてはこちら「渋沢栄一年譜」(PDF:331KB)
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