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掲載日:2019年3月18日
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埼玉県域で人々の暮らしが始まった時期は、少なくとも今から約3万年前の旧石器時代までさかのぼると考えられている。
約1万2,000年前から始まる縄文時代には、全地球的な気候の温暖化に伴って海水面が上昇し、6,500年前ころのピーク時には、県内の低地部にまで海が深く入り込んだ。当時の人々が廃棄した貝殻が集積した「貝塚」が県内各地につくられたのは、この時代である。
2,300年前ころになると、米作りなど新しい技術を含む弥生文化が当地に伝わり、人々の暮らしは狩猟採集主体から農耕主体へと大きく変化する。こうした中で、やがて東日本最大の埼玉古墳群(行田市)に見られる巨大墳墓を築き、稲荷山古墳出土の国宝「金錯銘鉄剣」に金象嵌によって記された115文字が語るような、中央政権と強く関わる支配者たちが出現することになる。
708年に秩父から自然銅が朝廷に献上されたことを記念し、年号が「和銅」と改められ、日本最古の通貨とされる「和同開珎」が造られた。
奈良時代の初めには、朝鮮半島から渡来してきた人々が武蔵国に移住して、新たに高麗郡と新羅郡(後の新座郡)が設置された。日高市にある高麗神社は、高麗人の中心となった高麗王若光を祀ったものである。当時の埼玉県域の人口は明確には分からないが、10世紀の初めにできた「和名抄」によると、県域内の「郷」の数は75ほどあるので、約9万人であったと推定される。
平安時代に入ると、政治の中心であった京の都から遠く離れた武蔵国では、中央の威令が衰え、荘園の増大とともに、土着した下級貴族や地方豪族が力を持つようになる。承平5年(935年)に平将門の乱が起こった後、この傾向は一層強まり、やがて武士団の発生へと進展していく。坂東八平氏や武蔵七党がその例で、県内では坂東八平氏の秩父氏から畠山氏、河越氏などが分出したほか、武蔵七党の児玉党、丹党、猪俣党、野与党、村山党、横山党などに属する小武士団が所領を支配した。
源頼朝は、建久3年(1192年)に征夷大将軍になり、鎌倉に武家政権(幕府)を確立するが、この鎌倉幕府の創設には多くの武蔵武士が力を尽くした。例えば、平氏追討の華々しい戦いのなかで、畠山重忠、熊谷直実、河越重頼、比企能員などが活躍したことが、当時の軍記物語などに記されている。しかし、これら有力な武士たちは、畠山重忠のように後の政権争いの中で滅亡し、また、地頭として他国に移住するなどして、次第に姿を消していった。
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡し、その後の南北朝の争乱の中で、埼玉の地は幾度も戦乱に巻き込まれた。やがて、鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立、享徳の乱を契機とした古河公方と山内・扇谷の両上杉氏の争いの中で、この地も次第に戦国の様相を呈してゆく。明応4年(1495年)、北条早雲が小田原を手中に収め、後北条氏の関東への進出が開始されると、まさに戦国の世はたけなわとなる。
天文15年(1546年)の河越夜戦を契機に、埼玉県域は次第に後北条氏の勢力下に組み込まれ、北条氏邦を支城主とする鉢形城(寄居町)は北関東進出の拠点となった。しかし、戦国大名として5代にわたり勢威を誇った後北条氏も、天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉によって攻められ、県内の松山城、岩付城などは相次いで落城、本城の小田原城も3か月の籠城の後降伏し、あえなく滅亡した。これにより、約50年続いた後北条氏の武蔵国支配が終わった。
後北条氏の滅亡後、徳川家康が江戸へ入府し、関東の大部分は徳川氏の所領となった。とくに県内の地は江戸に近く、戦略上も重要だったので、川越、忍、岩槻、岡部には有力な譜代大名が置かれた。また、幕府直轄領のほか、旗本領や寺社領となった地域も多く、その領地は錯綜していた。
江戸時代は、県内の開発が進んだ時代であった。その第一は河川の改修である。江戸湾に注いでいた利根川本流を銚子に至る流路に整備し、荒川は、熊谷市久下付近で和田吉野川・市ノ川の流路に導き、入間川と合流するように改修した。これにより、県東部の平野は水害から守られ、広大な新田が開発され、舟運も発達した。第二は道路の整備で、五街道の中山道と日光道中(奥州道中)、将軍が日光東照宮への参詣で通る日光御成道などが整備された。これらの街道沿いには宿場町が発達し、大名行列や旅人などで賑わいをみせた。
この時代に活躍した県出身者の中に塙保己一がいる。盲目の国学者として知られ、文政2年(1819年)に日本の古典・古記録の集大成である『群書類従』正編666冊を編さん刊行したことは、あまりにも有名である。
明治の新政府の下に地方制度も改革されるが、明治4年7月の廃藩置県を経て、同年11月に埼玉県が誕生する。当時の県域は、現在の埼玉県の荒川以東の地域で、西半分には入間県が成立した。明治6年、入間県は群馬県と合併して熊谷県となり、明治9年には熊谷県の旧武蔵国13郡が埼玉県に合併して、ほぼ現在の県域を有する埼玉県が成立した。
当時の埼玉の産業の中心は農林業であったが、特に養蚕業は盛んであり、やがて政府の殖産興業政策もあり、近代的な機械制の製糸工業なども導入される。明治16年に日本鉄道会社により開通した高崎線は、我が国初めての民営鉄道で、県内の近代産業の発展を促進した。
明治期の県内の大きな出来事の中に、秩父事件がある。自由民権運動が高揚した明治17年、借金に苦しむ秩父の農民たちは質屋や郡役所を襲った。驚がくした政府は軍隊を派遣してこれを鎮圧したが、秩父盆地全体を巻き込んだこの騒動は、全国にも大きな影響を与えた。
明治の近代化の中で活躍した県出身者の中に、渋沢栄一がいる。我が国近代資本主義の育ての親ともいうべき栄一は、深谷市のレンガ工場、秩父市のセメント工場の設立に力を尽くすなど、県下の商工業の発展にも多くの功績を残している。
また、女性の社会進出が自由にいかなかった明治時代に、我が国公許の女医第1号となった荻野吟子、第2号となった生沢クノは、ともに埼玉県の出身である。
戦後、我が国経済の高度成長は、首都圏に位置し平坦地が広い埼玉県を大きく変貌させた。
戦前は農業中心の産業構造であったが、戦後は、県内各地に大規模な工業団地が造成され、機械工業を中心とした内陸工業県となった。
人口の増加も著しく、昭和25年に214万人であった人口が、昭和45年の国勢調査では386万人になり、全国第1位の人口増加率(28.2%)となった。その後も人口は増加を続け、昭和52年には509万人、昭和62年には606万人、平成14年8月には700万人を突破した。
平成12年5月には、行政・経済・文化の新しい拠点として「さいたま新都心(さいたま市)」、平成15年2月には、産業の拠点として「SKIPシティ(川口市)」が街びらきした。
県内の交通網も大きく変化し、昭和40年代以降、東北縦貫自動車道、関越自動車道、常磐自動車道などの高速道路が建設された。近年では、東京外環自動車道や首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の県内一部区間の供用開始(平成23年5月には白岡菖蒲IC~久喜白岡JCT間が開通)など、県域の東西を結ぶ道路の建設も進み、首都高速道路も県内に延伸された。また、これら高速道路とネットワークを結ぶ国道・県道などの整備も進められている。
一方、鉄道網は、既存線の電化や複線化などが進む中、昭和57年の6月に東北新幹線、11月に上越新幹線が開通し、昭和58年12月には、その高架軌道の張出し部分を活用した埼玉新都市交通伊奈線が開通した。昭和60年9月には、通勤新線として埼京線が開通、また、県内初の地下鉄として、平成13年3月に赤羽岩淵と浦和美園を結ぶ埼玉高速鉄道線が開通した。平成17年8月、秋葉原とつくばを結ぶ「つくばエクスプレス」が開通し、県内に2駅(八潮と三郷中央)が設置された。更に、平成20年6月には和光市と渋谷を結ぶ東京メトロ副都心線が開通した。
昭和28年の町村合併促進法施行前に323あった市町村は、同法失効後の昭和31年には109市町村となり、その後の合併により、昭和48年には92市町村となった。
地方分権の流れを受けて、「市町村の合併の特例に関する法律」が平成11年に改正され、新たな特例措置が盛り込まれたこと等により、全国的に「平成の大合併」といわれる市町村合併が進展した。県内では、平成13年5月に浦和市、大宮市、与野市の3市が合併し「さいたま市」となり、平成15年4月には全国で13番目の政令指定都市に移行した。その後、多くの地域で合併が進み、平成24年10月1日には白岡町が市に移行し、63市町村(40市、22町、1村)となった。
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